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国指定文化財

重要文化財 高橋家住宅

所在地 黒石市大字中町
指定年月日 昭和48年2月23日
平成16年12月10日追加指定
所有者 個人

住宅外観

通り土間

 

高橋家は、代々理右衛門を名乗る黒石藩御用達の商家である。主に米穀を扱ったことから、屋号を「米屋」という。味噌、醬油、塩等の商いも行ったという。高橋理右衛門が中町に住みついたのは享保2年(1717)で、敷地を購入したのが宝暦5年(1755)である。高橋家住宅は、同13年(1763)に建築された。さらに明和7年(1770)と寛政12年(1800)の二度にわたって敷地を拡大している。


高橋家住宅は通り土間(にわ)、吊り上げ式大戸、吹き抜け天井、出格子窓などを備えた津軽地方の典型的な大型商家で、中町に面する道路側には「こみせ」が設けられている。


住宅の北側には幅2間の通り土間があり、明かり取りに吊り上げ式の大きな障子窓が備え付けられている。また、土間から「こみせ」への出入口には吊り上げ式大戸が備えられている。


東側、通りには、「みせ」と呼ばれる部屋が二部屋あり、藩政時代には広い一部屋として利用されたこともあった。「みせ」と「こみせ」を仕切る柱間には摺り上げ戸を完備している。「みせ」の上には、奥行2間の2階が設けられ、8畳の座敷と4畳ほどの板間が中央の棟をはさんで左右対称に配されている。2階は側桁が低いため、梁を「与次郎組」という技法を用いており、これによって室内の高さを確保している。このほか、細部においても藩政時代の面影が残っており、非常に貴重な建造物である。


※高橋家住宅の見学は無料ですが、個人住宅ですので、限られた期間、場所だけの公開になります。また、冬期間(12月~3月)は、公開しておりません。それ以外の期間でも公開できない場合があります。

名勝 金平成園(かねひらなりえん) 別名「澤成園(さわなりえん)」

所在地 黒石市内
指定年月日 平成18年1月26日
所有者 黒石市

庭園

旧加藤家住宅主屋

金平成園は「大石武学流(おおいしぶがくりゅう)」または「武学流」という、津軽地方特有の流派で作庭された庭園である。津軽地方の政治家・実業家であった加藤宇兵衛の求めに応じ、明治25年(1892)に武学流3代目高橋亭山(ていざん)が作庭に着手した。しかし、亭山は庭園の完成を待たずに死去したため、弟子の4代目小幡亭樹(ていじゅ)、5代目池田亭月(ていげつ)らが後を継ぎ、明治35年(1902)に完成した。


庭園の名称は、「万民に金が行きわたり、平和な世の中になるように」という宇兵衛の願いから、「金平成園」と名付けられたが、加藤家が明治30年(1897)頃まで営んでいた酒造業の屋号・「澤屋成之助(澤成)」から、「澤成園」とも呼ばれている。


庭園の様式は、園内の池を中心に回遊しながら鑑賞する「池泉鑑賞兼回遊式」で、池泉は前後に細長く、奥行きを持たせた平面的な構成となっている。池の背後にある築山には豪快な枯滝組(かれたきぐみ)や巨大な月見燈籠(つきみどうろう)を配置し、また、その南側の奥には「守護石(しゅごいし)」と呼ばれる円錐形の巨石や、月見燈籠、岩木山を模した遠山石(えんざんせき)、野夜燈(やどう)などが設けられている。


主屋の座敷前には2つの沓脱石(くつぬぎいし)が置かれ、そのうちの1つから「飛石」と呼ばれる幅約50センチで凹凸のある石の列が3筋配置されている。そのうちの1筋は「礼拝石(らいはいせき)」と呼ばれる、大きく平らな石へと繋がり、残りの2筋は自然石で製作された蹲踞(つくばい)と、外部に続く門へと繋がっている。また、もう1つの沓脱石から延びる飛石は、池の中心にある中島を通り、敷地南側中央部に位置する薬医門へと続いている。


庭園の西側には、主屋、離れと煎茶用の茶室からなる旧加藤家住宅があり、主屋と離れは明治35年(1902)に建設された。当初、離れは平屋であったが、明治45年(1912)頃に2階が増築された。


園内には、景観を構成するクロマツの高木が築山上をはじめ、園内各所に植えられている。また、茶室周辺や敷地南側にはモミジ、チャボヒバ、イチイ、サワラなどの他、低木であるハイビャクシン、シンパク等の常緑針葉樹が植えられている。


このように金平成園には礼拝石、蹲踞や守護石、遠山石、月見燈籠、野夜燈といった景石が設置されており、初期の大石武学流庭園を理解するうえで貴重な庭園である。

一般公開については、金平成園(澤成園)開園のお知らせをご覧ください。

重要伝統的建造物群保存地区 黒石市中町伝統的建造物群保存地区

所在地 黒石市大字中町ほか
指定年月日 平成17年7月22日
所有者 黒石市

 

中町こみせ通り写真

 

明暦2年(1656)、黒石初代領主・津軽信英(のぶふさ)は、弘前藩4代藩主・津軽信政の後見人に命じられた。この時、信英は弘前藩から5,000石の分知を受け、「黒石津軽家」を創立し、以前から存在していた町並みに基づいて町割り行った。黒石津軽家の創立以来、多くの旅人が上ノ坂、前町、中町、浜町を通って青森(外ヶ浜)へと向かっていた。そのため中町、前町の通りは「浜街道」と呼ばれ、商人町として栄え、特に中町には造酒屋、醤油屋、呉服屋などが立ち並び、黒石の中心商店街としての機能を果たしていた。


この中町、前町の通りには、「こみせ」と呼ばれる木製のアーケードが連なって設けてられており、明暦2年(1656)に町割りを行った際に整備されたと言われている。こみせとは、表通りの正面に設けられた深い庇のことで、歩行者が雨や雪などを受けることなく快適に買い物を行うことが可能となっている。こみせの前面(道路側)は基本的には柱のみで、積雪期になると「蔀」や障子戸などを落とし込んで風雪を防いでいる。


このようなこみせが連続する町並みは、最盛期には山形町、前町、浜町、横町、上町、元町にかけて総延長約4,800mもの長さに及んでいた。しかし元治元年(1864)、明治2年(1869)に発生した火災や、国鉄黒石駅の開通、高度成長期による車社会の到来などによって人と物の流れが変容してしまい、こみせの大部分が消滅してしまった。しかし中町の通りは、こみせが伝統的形態を保ったまま存在し続けており、全国的に見ても極めて貴重である。

 

中町こみせ通りの詳細はこちらへ

登録有形文化財 九戸家住宅

所在地 黒石市大字乙大工町
指定年月日 平成18年10月18日
所有者 個人

 

 

黒石陣屋内にあった侍町(甲大工町)に建てられた建物で、黒石藩家中の家であったとされる。建築年代は定かではないが、文化6年(1809)、黒石8代領主・津軽親足(ちかたり)の時、黒石藩が成立していることから、その頃に建てられたと推定される。また、黒石14代津軽承捷(つぐかつ)の生家としても知られている。


建物は木造平屋建で、屋根は寄棟造の茅葺屋根である。建物の規模は桁行6間、梁行5間である。部屋の配置は玄関側に6帖の広間と12帖の座敷が並び、その奥には9帖の茶の間と8帖の押入れ付きの和室がある。和室の押入れは後から設置されたもので、建築当初は9帖であったと思われる。


建物の造りや配置から上級武士の建物の可能性が高く、残存状況もよいことから、藩政時代の建物を理解する上で重要なものである。

登録記念物 鳴海氏庭園

所在地 黒石市大字中町
指定年月日 平成19年7月26日
所有者 個人

 

 

鳴海氏庭園は黒石市中町伝統的建造物群保存地区の中に位置する、大石武学流の様式を持つ庭園で、明治20年(1887)に鳴海家3代目文四郎の求めに応じて、武学流4代目小幡亭樹(ていじゅ)とその弟子5代目池田亭月(ていげつ)らによって作庭されたとされる。


庭園はT字型をなしており、庭園の南西側は17世紀頃に建てられたとされる母屋が、東側には大正2年(1913)に建てられた文庫蔵がある。座敷縁側前に設置された沓脱石からはV字状に飛石が配置されており、一方は礼拝石(らいはいせき)、もう1筋は蹲踞(つくばい)へと延びている。南北に伸びる不整形の池の北端には大小3石からなる枯滝石組があり、その周辺には深山石(しんざんせき)や野夜燈(やどう)が据えられている。その他にクロマツやサツキ、カエデ、カシワなどが植えられており、庭園の主景観をなしている。また、クロマツの東側には、守護石と呼ばれる大きな石が配置され、池の北西側には明治43年(1910)11月に建立された3代目文四郎の銅像が設置されている。


鳴海氏庭園は大石武学流の特徴をよく残しており、当時の流派を理解するうえで重要である。