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是空行者と寂導行者

 

どうしたものか銀蔵少年は、僧侶のまねをすることがたくみであった。山形町で鍛冶屋を営んでいた父、山崎九兵衛は大弱りであった。よりによって、僧侶のまねごとをするので、いくらやめるよう注意しても効き目はなかった。

 

九兵衛としては家業に関心をもたず、こりもせず僧侶の仕草を演ずるので、心おだやかでなかった。反面、僧侶の所作を子供ながら、こまかく観察していることに、内心、舌をまいていた。

 

銀蔵少年は、成長するにつれ出家の気持ちが強くなり、1823(文政6)年5月、25歳の時、両親が涙ながらにいさめるにもかかわらず、自ら髪をそり菩提寺である黒石町来迎寺住職良諦和尚(らいごうじじゅうしょくりょうたいおしょう)に入門し、蓮光是空(れんこうぜくう)と名乗った。

 

生来、仏心のあつかった是空は、一心不乱に念仏修行にはげみ、その頃は、病弱気味の体も、嘘のように健康をとりもどしていた。

 

仏僧として陰ひなたのない一途な修行は、良諦和尚の眼を驚かすに充分なものがあった。

 

しかし、来迎寺は檀家(だんか)が多いため、参詣する人々や、法事のとりしきり等雑務が多く、是空にとっては必ずしも満足する世界でなかった。

 

 

それで是空は、さらに悟りの境地を求め、山形村中野の不動尊の洞穴で、少量の水と山ぶどうの葉を噛みつつ断食を行った。2週間をすぎた満願の夜明け、夢枕に仏があらわれ、「お前は、この地の北の山中に安住の地を定めるが良い。」とお告げがあった。

 

霊夢をみた是空は、心静かに仏道につかえる地を求め、1824(文政7)年2月、残雪の多い山中に一夜野宿し、霊地を求め歩いた。黒森山の中腹にたどり着いたら、そこはなだらかで清水も湧き、裏山は雑木林で覆われ、人里とも離れ、時折、木こりが姿をあらわすだけの閑静なところで、それこそ是空の理想郷にみえた。そこに永住することを決めた是空は、さっそく寺に帰り、良諦和尚に黒森山に隠遁し、修行したいと胸のうちを語った。その当時は、みだりに寺を創建することは許されなかったが、黒石藩側の特別なはからいにより、黒石の上ノ坂(現在の神明宮付近)の廃庵状態にあった、浄仙庵の“再興”という名目で、その年の3月、黒森山への開山が許された。

 

こうして自分の骨を埋めようとする、ついのすみかを得た是空は、念仏三昧(ねんぶつざんまい)に明け暮れることができ、信仰は日ましに豊かなものになっていた。

 

 

しかし、山中での生活は大変きびしいものがあった。小鍋1つ、少量の粟、敷物を1、2枚もって山に登り、まず、身をいれるだけの草庵を結び、あらむしろを敷きその上に寝起きし、ひねもす念仏を唱えた。そのかたわら、残雪まばらな山野から、草の根を掘ったり、手に入れた山菜などを水煮して露命(ろめい)をつないでいた。食料が乏しく寒気のため是空の身体は目にみえて衰弱していった。

 

噂を聞いた身内の者が、堅雪を歩いて、米、塩を持って来たが、是空は米断ち、塩断ちを守るため、がんとして受けつけず、身内の者たちも、是空の身の上を案じつつも、しおしおと山からおりねばならなかった。

 

 

 このことを木こりから聞いたふもと黒森村の一老婆は、粟餅をつくり、是空にすすめたが、女人の供養は受けないと是空はこれを拒否した。老婆は「命あってこその信心ではありませんか。」と譲らず、是空も老女の心根に打たれ、粟餅を口にしたといわれる。

 

これといった仏具を揃えていなかった是空は、響きのよい板を木魚がわりに用い、棒切れで叩きながら、なり振りかまわず、無心に念仏修行に明け暮れていた。

 

是空の噂を聞いた弘前土手町の町人、三浦某の妻は、かねて黒森山の参詣をしたいと思っていたが、家業が忙しく、参詣のかなわないままに病の床にふしてしまった。

 

臨終の際、家の者に「夢の中で黒森山に参詣したところ、小さな庵に行者が一人いた。見れば、やせ細り、黒ずんだ顔の左眼が少し悪いようだが、一生懸命、板を叩いて念仏を唱えていました。

 

不思議に思って辺りをみても、鉦も木魚もなかった。だから私が死んだら必ず鉦を寄進して下さい。これが私の一生のお願いでございます。」といい遺して亡くなった。家中の者が、半ば疑いながらも、忌中もあけぬうち、鉦をたずさえて浄仙庵に来てみると、臨終の際の言葉と寸分違わず、是空は板を鳴らして念仏をしていたのでことのほか驚いたという。

 

弟子寂導とのめぐりあい

1825(文政8)年春、板留村の農夫、丹羽九兵衛の三男寂導は、13歳のおり、母と一緒に黒森山に参詣に来たが、突然、ここで出家をしたいと言い出し、家へ帰ろうとしなかった。

 

その場はなだめてようやく家に帰したが、幾日もなく、少年は是空を再び訪れた。やや小柄で利発そうな表情をしている。是空は修行の並々ならぬ苦しさを説き聞かせ、いったん家に帰した。すると、また翌日、少年は姿を見せた。親に相談もなく、出家得度(しゅっけとくど)したいので勝手に家から出たのだという。

 

 

こんなことをくり返しているうちに、両親も寂導少年のてこでも動かない意志に根負けし、三男を連れ、わずかばかりの什器(じゅうき)、仏具、穀物などをもたせて、正式に是空に入門を嘆願した。

 

このようないきさつから、しばらく考えぬいた挙句、是空は寂導少年を門弟として預かることにした。

 

寂導の母は、我が子が入門したことを見届けると、その夜から身をきよめ、3週間にわたって、中野村の不動尊の祠に、寂導が立派な僧に成長するよう願をかけた。

 

不動尊の境内は、樹齢数百年と伝えられる杉の木が立ち並び昼でも薄暗いほどであるが、夜ともなれば木立ちのざわめき、鳥とも獣ともつかぬあやしい鳴声、滝の流れ落ちる音や、川の響きが、こだまし、すさまじい気配をかもしだし、男でもめったに近寄りがたいところである。この寂導の母の子を思う真心に、まわりの者、みな心打たれ賞賛したと伝えられる。

 


寂導が入門するとしばらくの間、板留の生家の丹羽家では、稗(ひえ)や粟、世帯道具をおくるなど生活の手助けをしたといわれる。

 

当時、黒森山一帯は家畜のための採草地であった。4月ともなれば、待ちかねたように若草がもえだし、庵の裏山の樹々が、黄みどりも鮮やかに芽を吹き出す。そのなかで27歳の青年僧是空と、髪をおとしたばかりの、まだあどけなさの残る13歳の少年僧寂導の修行生活が始められた。

 

二人は邪魔な石を動かし、水を引き、木を倒し、土地をならし畑を耕し、大豆、粟、麦等を栽培し、裏庭には栗、くるみを植えた。

 

信仰のかたわら、寺づくりのための師弟の努力がくり返されたが、寂導は悲鳴をあげるどころか、喜々として、是空に従い、是空を驚かせた。

 

二人の山地での修行が方々に広まるにつれ、近くの黒森村、大川原村、中野村の人々の奉仕や寄進も多くなり、境内もそれらしく形が整ってきた。

 

明治の初め頃「浄仙寺」という寺号も許され、二人のきびしい行と、高い学識が津軽一円に知られるにつれ、他宗派の心ない僧たちが、さまざまな教義上の難問をふきかけ、是空をやりこめようと来山した。これに対し是空は「拙僧は、痴れ者で、ただ念仏をとなえるしか、術を知りません」と意に介さず超然としていたので、その風格に圧倒され、山を訪れる者、ことごとく心服して帰らなかった者はないといわれる。

 

是空は比叡山の西塔(さいとう)、黒谷の聖人と仰がれた浄土宗の開祖、法然上人(ほうねんしょうにん)を誰よりも崇拝しており、是空のこのような態度は、法然の最晩年の言葉「只一かうに念仏すべし」(一枚起請文(いちまいきしょうもん))を、そのまま地でいったものであった。
是空は浄仙寺開基以来、1876(明治9)年5月、78歳で入滅するまでの50年あまり、ただの一度も黒森山を下りることはなかった。

 

1832(天保3)年、35歳で父九兵衛を病で失ったときも、一人悲しみをこらえ、粗末な庵で父の追悼供養(ついとうくよう)を行ったといわれる。

 

寂導は師是空の妥協のない信仰、高い学殖に心底から敬服していたので、その純粋な信仰生活を、少しのためらいもなく踏襲した。魚肉はもちろん、米断ち、塩断ちをし、雑穀を日々のかてとして、一筋に、仏の戒めを守り修行にいそしんだ。

 

寂導はまた、彫刻に天賦の才能を発揮し、信者や、村人にこわれるままに小刀で仏像を彫って与えた。 のちに寂導の一刀彫りといわれた木像で、その数はおびただしい本数にのぼった。

 


素朴だが気品にとむ作品が多く、素材としては、桐、楓などが好んで使われている。

 

製作中は、絶え間なく念仏を口ずさみ、そばに人がいることも、食事を忘れることもたびたびであった。

 

木こりや猟師が立ち寄ると、お堂の前に腰をかけ、仏の道をわかりやすく説き聞かせ、荒くれ男たちが神妙な面もちで、かしこまっている風景がよく見られた。

 

二人の評判が高まり、近くの村々から教えをこう青少年がふえ、これら子弟の教育も、課題の一つであった。

 

一時期は塾生が100人を超え、年齢の幅も、上は30歳から下は10歳未満という年齢差があり、よその寺子屋には見られないにぎやかさがあった。漢字を覚えさせるため、机の脚のつけ根に浅い箱をつけ、灰を入れ、塾生に指で字を書かせ、書き取り能力の向上をはかった。

 

勉強の苦手な塾生を選んで、よく温湯村の商店に買物をさせた。塾生たちは夏だと、山麓を流れる小川堰の清流にひたり、衣類と買物かごを頭上にゆわえ、水にたわむれながら、温湯村の入口の堤沢にたどり着くのが常であった。

 

二人は普通の人々にできない潔癖な生活を送っていたが、このように教え子には、自由闊達(かったつ)に接したので、その学風を慕い、津軽一円から生徒が集った。

 

「黒森山浄仙寺」と山号、寺号が許された頃は、地蔵堂、不動堂、仁王門も完成し、池も掘られ、庭園も仕上がり、寺院としての輪郭もほぼできあがっていた。

 

1872(明治5)年8月、学制発布にともない、黒森学校もこれまでと異なり、近代的学校として存続するには、役場で法律的手続き等が必要となった。それで黒森山から下山しない誓願をたてた寂導は、手続きなどを浪岡村から入門している三世寂静(さんぜじゃくじょう)にまかせ、隠居の身分となって子弟の教育に当たった。

 

1885(明治18)年3月、黒森山の南の麓の井戸沢村を流れる小川堰に、一枚石の橋をかけたとき、村人たちのたっての願いで、寂導は橋の渡りぞめにのぞんだ。この小川堰は黒森山の賽の河原に接した一角であった。そのあと先、親、兄弟がなくなっても、黙々として行にはげんだ。

 

1904(明治37)年1月、92歳で入寂(にゅうじゃく)するまで、師の蓮光是空とおなじく、ひたむきに信仰に身をゆだね、まれにみる清らかな一生をつらぬいた。

 

 

晩年のある日、黒森山の頂上にのぼり、足元にひろがる景色を眺めていると、いずくともなく紫の雲が、すうっと流れてきた。

 

思わず寂導がその雲に乗ろうと、身をのり出したら、雲がさっと流れ去った。寂導は、そのまま雲に身をまかせ、西方浄土(さいほうじょうど)に行こうとしたのかも知れない。ひたすら信仰の道を求め、自在の境地に達した老和尚の姿を垣間みる思いがする。
米、塩を断ち、雑穀や、木の実、草の根を掘り食し、妻帯もせず、仏道にいそしむために生れてきたような、二人の清僧の一生は、暖衣飽食(だんいほうしょく)の現代の人々に、無言の警告を発しているような気がする。

 

是空、寂導の法名は「大蓮社良海上人是空行者(だいれんじゃりょうかいしょうにんぜくうぎょうじゃ)」、「接蓮社良引上人寂導行者(しょうれんじゃりょういんしょうにんじゃくどうぎょうじゃ)」で、これは浄土宗名越派(なごえは)の総本山いわき(福島県)の専称寺からおくられたもので「行者」という二字が、師弟の生きざまを簡潔に象徴しているようである。

 

二人の高僧は、霊地黒森山浄仙寺の一隅に、静かに眠っている。


(執筆者 佐藤義弘)