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吉田 昌一

吉田 昌一 写真

 

黒石高校定時制課程の第一回卒業生吉田昌一は、熱帯稲作の救世主といわれる。1984(昭和59)年1月31日の朝日新聞第1面コラム欄「天声人語(てんせいじんご)は次のように書き出した。


「アジアの米づくりに大きな足跡を残した吉田昌一さんが亡くなった。53歳だった。ドクター・ヨシダの死を悼(いた)むアジアの農業関係者の数は少なくない。
フィリピンにある国際稲研究所(略称IRRI(イリ))の植物生理部長として、稲の生理の研究では世界の第一人者といわれた人である。アジア各国をめぐり歩き、泥にまみれて米づくりの障害を追求した実践的研究者だった。


東京の下町に育ったが、戦災で家を焼かれ、戦後まもなく次々に父母を失った。窮乏(きゅうぼう)に耐えて定時制高校に通い、独力で北大を卒業した。『後ろを振り返らず、常に前へ進む人でした。』とよし子夫人はいう。


18年前、農林省(現農林水産省)からIRRIに転じた。IRRIは『奇跡の米』といわれた多収穫米の品種を開発したが、吉田さんは品種の改良だけでは限界があることを見抜いていた。各国の農場を回り、①土壌の亜鉛不足で不作になる地域がある。②開花期の酷熱に問題があるからそれをずらす工夫をする。③かんがいの基盤整備をなどと説いた。その助言が実った例は数多い。」と功績をたたえた。

吉田の指導で土壌中の亜鉛不足を発見した韓国の学者は、韓国稲作の収量を大幅に増やした功で韓国大統領の特別賞を受けた。

 

「天声人語」はさらに同年7月24日に、よし子夫人が中心となってつくった「吉田昌一記念基金」について次のように語っている。

 

「今年1月、がんで亡くなった吉田昌一博士のことを、本欄で書いたことがある。フィリピンにある国 際稲研究所(略称IRRI(イリ))の幹部として、アジアの『コメの革命』に貢献した人だ。稲の生理の研究では世界に名を知られた学者である。その吉田さんを記念した『基金』が近く誕生する。」

 

また、「ドクター・ヨシダは常に私たちを理解し、尊重してくれた。ドクターは私たちの心に永遠に生き続ける。」そういって、IRRI職員のフィリピン人たちは死を悼んだ。面倒見のいい人だった。

 

病状が悪化して、自宅で点滴治療をうけるようになっても、職員の給料をめぐる重要な会議のときは出かけて行った。「上にいて、人の面倒を見る立場のものがその責任を果たさないのは犯罪だ。」と強い調子で夫人に言ったことがある。

 

昌一はまた国際人らしく、ことばの使い方に気を配った。「私の論文(英文)を読んで辞書を使ったことがあるかね。」と、IRRIの研究者にたずねたことがある。「だれもが明確に理解できるように明快なことばを選ぶこと」を常に力説した。

 

基金はアジアの、特にフィリピンの若者の奨学金に使われる。「アジアの未来をささえるのは農業である。そして熱帯の国々は未来の世界の穀倉地帯になりうる」という吉田さんの信念をうけつぎ、基金は、熱帯農業の研究を志す学生を対象とした。現在この基金で10名のフィリピン青年が大学で学んでいる。

 

吉田昌一は1930(昭和5)年8月25日、東京都中央区富沢町5の4に生まれた。父正、母香久(かく)の長男である。父は富山県高岡市の寺院出身で、長く、日本橋のメリヤス問屋の番頭をした。母は北海道小樽市出身、第八代青森県立農事試験場長で青森県稲作の基礎研究をまとめて東奥賞を受けた稲見五郎の姉である。昌一は3つ年上の姉のほかに妹、弟をもっている。


父は大正末年に独立して店を構え、手広く商売を行ったが1927(昭和2)年の金融恐慌で倒産し、本所に小さく婦人子供服の縫製工場を経営した。しかし太平洋戦争が始まって工場は政府に徴用されてパラシュートづくりを行い、健康を害(そこ)ねてしまった。昌一は1943(昭和18)年、本所区の中和尋常(ちゅうわじんじょうく)小学校を卒業して、府中市にある都立農学校に入学した。しかし、B29による空襲が激しくなった翌19年、叔父五郎が県農試木造分場長だったので西津軽郡木造町に疎開し、立五所川原農学校に転校した。間もなく一家が東京から疎開して来たが、父正はすでに体をこわしており、20年4月没した。1948(昭和23)年、五所川原農学校をトップの成績で卒業。叔父が場長となった黒石市にある青森県立農業試験場農芸化学科に勤務した。科長は後の弘大教授望月武雄である。こうして元町に住み、姉と二人働いて幼い妹や弟、それに病弱な母を看病し、家計をまかなった。しかし、母もこの年夫の後を追うように世を去った。多感な年頃に相次いで両親を失ったことはさすがにこたえた。これを見て、望月科長は昌一に北大進学をすすめた。叔父も姉も賛成した。しかし、そのためには新制高等学校卒業の資格が必要だった。ちょうど、黒石高等学校に新しく働きながら高等学校卒業の資格がとれる定時制課程が発足したので5月、向学心に燃える昌一は早速入学することにした。ここで幸せにも小田桐正三先生と出会った。一時、青森県教育長候補にもなった視野の広い先生は昌一の非凡さを認めた。当時の資料に「学究的な真摯さあり」と書き残している。翌24年卒業したが、学校長賞、優等賞、実業教育振興会長賞などを独り占めしている。

 


勤務後、定時制で学び、帰宅してまず1時間復習し、その後、眠気をとりに夜の散歩をし、そして北大農学部をめざす受験勉強をした。北大では寮生活の中で土木作業などあらゆるアルバイトをした。専門コースでは石塚喜明(いしづかよしあきく)教授のもとで土壌学を学んだ。叔父と同じ分野だった。北大時代は経済的には苦しかったが若さゆえ希望に満ちたものだった。休暇に黒石へ帰って来た時には、姉や妹たちの前で寮歌を歌って聞かせた。“都ぞ弥生(みやこぞやよい)”が十八番だった。


彼が専門課程に入った時、折よく黒石市の歯科医師波多野武治(はたのたけじ)氏が前途有為の青年のため、私財を基金として奨学金制度を創った。小田桐先生は早速、彼を推薦したので彼は波多野奨学会の第1号奨学生となった。両親を失って姉の収入だけで一家が支えられていたので北大の学費などは免除になっており、また日本育英会の奨学金も貸与されていたが、波多野奨学会に採用されたことは彼の人生を決定的に変えた。彼の没後、よし子夫人が「吉田昌一記念基金」の奨学制度を始めたのも奨学金制度に感謝する夫の遺志を活かすためだった。


アルバイトから解放されて勉強一筋の生活に戻った昌一はよく頑張った。その結果、1954(昭和29)年の国家公務員上級職の専門職では全国第二位で、さらに一般行政職でも各大学法学部出身者相手に善戦し、優秀な成績で合格した。

 

当時、人事院では理科系の専門職と文科系の行政職の両方をこなすキャリア組(早く政府高官になる人たち)が手薄だった。そこで文系、理系ともに強い昌一に人事院から是非来てくれるようにと勧誘があった。また大蔵省の主税局からも声がかかったが、自分の専門分野を一番活(い)かせる農林省の研究機関に入った。


結局、東京都北区西ヶ原にある農林省農業技術研究所(現農林水産省農業総合研究所)に就職した。ここで専門の農芸化学の腕をみがいた。よし子夫人との出会いもここであった。そしてイネの生理、つまり光合成や根の生長、植物体の栄養バランスなどを追求し続けた。また、視野を広げるためアメリカ留学を希望し、夜はアテネ・フランセに通学して英語を学んだ。やがて1965(昭和40)年宿願のアメリカ留学を果たした。帰国後、日本を訪れる世界の農業研究者に対する通訳はもっぱら彼があたった。愛情をあたためあったよし子夫人とは帰国直後、挙式の運びとなった。


1966(昭和41)年、石塚教授のすすめもあり、農林省からフィリピン・マニラにある国際稲研究所(International Rice Research Institute 略称IRRI(イリ))へ植物生理部長として赴任した。初めは2年くらいのつもりだったが18年の長期にわたった。二人の娘はマニラで育ち、英語が第一外国語、日本語が第二外国語となった。


1960年代初期、爆発的に増加する人口に食糧生産が追いつかないという推測が支配的で、将来に対する見通しは暗かった。特に1965、66年と2年続いて発生したインドにおける干ばつは、1200万の餓死者を出し、アジアの開発途上国における食糧生産の問題の深刻さを、さらに浮きぼりにしたものであった。
このインドの干ばつと同じ頃、小麦と稲の新しい高収量品種であるメキシコ小麦とIRRI(イリ)稲品種がインド、パキスタン、フィリピンを中心とした熱帯アジア諸国に導入された。これらの新品種は在来種にくらべて生産が2~3倍に増加しうることを示し、将来に対する明るい見通しを与えた。このような希望的観測が「緑の革命」という華麗な用語をうみ出した。


この「緑の革命」の中心となったIRRIは1960(昭和35)年4月、ロックフェラーおよびフォード財団の共同事業として発足、1962年2月に研究活動を開始し、4年後の1966(昭和41)年に“奇跡の米”と呼ばれるIR(アイアール)8を育成した。試験場では、反当収量は雨季600キログラム・乾季900キログラムで年間1,500キログラムだった。日本の反当収量が平均5~600キログラムなのだからまさに“奇跡の米(ミラクル・ライス)”だった。このIRRIは現在、あらゆる穀物の中で単一品種として最大栽培面積を誇るIR36、といった高収量・短期栽培の品種を開発した。IRRIの開発したイネは今ではアジアの主要稲作国の40パーセントを占めるまでになり、かつての食糧難の国が「食糧優等生」といわれるまでになった。このIRRIの数々の業績の中で、理論研究の大役を果たしたのが吉田昌一だった。吉田は世界でも最高水準の日本の稲作を、もう一度生理学の目で見つめ直し、それを熱帯でも応用できるものとした。


なお「緑の革命」の原動力となったのはメキシコ小麦の育成の成功であり、この功績によって育ての親ボーログ博士は1970年度のノーベル平和賞を受賞した。この小麦の栽培でメキシコの小麦の生産量は4倍になった。ところで、このメキシコ小麦誕生の発端が日本の小麦品種の農林10号などであることは案外知られていない。


一方、吉田昌一らIRRIの研究者たちは現地在来種インディカの改良だけで日本のイネ(ジャポニカ)のような高収量をあげる品種の育成をめざして成功したのだった。吉田はこの頃、早生(わせ)種と中生(なかて)種を組みあわせて、1年に4回の稲作を行い、合計して1ヘクタール当り24,000キログラムの収量をあげた。日本の4倍であり、日本に次いで収量の高い韓国の5倍、当時のフィリピンの15倍だった。


このようにして小麦と稲の高収量品種が急速に開発途上国に栽培され、1972~73(昭和47~48)年には全世界の小麦で18パーセント、米で5パーセントの増産をみた。その経済価値は10億ドルといわれ国際農業研究センターで小麦と米の研究に使われた金額の100倍だった。

 

「緑の革命」の心地よい響きは開発途上国の食糧不足がすでに解決されたかのような印象を与える。このことをもっとも心配したのは吉田だった。彼は冷静に事態を把握していた。ものごとの評価は期待が大きいほど、失望に傾きやすい。吉田は近代科学の大道を歩いて観察し、実験し、調査した。IRRI品種を栽培しているすべての国々を歩いた。現地に着くとすぐズボンをまくってずかずかと水田に入った。熱帯の水田は泥が深い。たちまち泥まみれになった。インドなどの学者はびっくりして目を丸くした。カースト制度の厳しい社会では、学者などは身分の高い階級出身だから泥にまみれることなどありえなかった。よし子夫人は夫に足を守って下さいとだけ言った。インドの土は石灰岩土壌なので鋭い破片があり、土の中には破傷風菌がいた。

 


吉田の英語の文章はケンブリッジ大学を出たイギリス人もかなわないほど上手だった。しかし、会話となるとそうはいかなかった。農林省代表としてスウェーデン留学が認められたよし子夫人の方がうまかった。もちろん現地で育った二人の娘はもっとなめらかだった。吉田は何回もテープに吹きこんで練習をした。

 

特に研究発表は大変だった。それは内容ではない。内容は数字、図、スライドなどで充分分り、また最高の成果をあげたものだったから自信があった。しかし発表の中に必ずジョークを二つ三つ入れなければ国際会議に通用しないのである。生まじめな吉田にはジョークが苦手だった。しかし、18年間の研究所生活の中でそれも身についた。ある時などは前の発表者がみんな時間をオーバーしてしまい、吉田の時には予定スケジュールが大きくおくれてしまった。人々はこれから、また、長々と専門発表を聞かされるのかといささかうんざりしている時、つかつかと壇上に上がった吉田が、にっこり笑い「私の発表内容はお手元の資料で充分お分りいただけると思います。私の発表を終わります。」とだけ言ってさっさと自分の席に帰ったので満場笑いと拍手で、後のレセプションでは最高の発表と握手攻めだった。


ところで「小人の稲はアジアの巨人」とたたえられた高収量品種は、試験田ではすばらしい成績をあげながら農村ではそれほどの成績をあげず、かつ、収量は不安定だった。その原因究明のため吉田はすべてのIRRI品種栽培地域を調査して回り、その結果を次のようにまとめた。


それは高収量品種栽培の条件にかんがい排水施設の整備、農薬による病害虫防除、チッソを中心とした肥料の使用があったが、貧しい開発途上国の財政、貧しい農民のもとではその条件をみたすことはできなかった。熱帯、亜熱帯の大部分の農民は水を降雨(天水)に頼っている。政府もかんがい施設のために公共投資をしない。そのため、干ばつ、大雨の影響が巨大であり、特に丈の短い新品種に被害が大きい。肥料は高価であり、しかも水の管理をともなわないと無駄になる。また稲の栽培地は高温多湿の土地で、もともと病害虫が発生しやすい環境なのに、現地の農民のおかれた条件ではタイムリーに防除活動が行えなかった。

 

そこで吉田たちは開発途上国の現実にあわせた農業技術の改良に軌道を修正した。ベストを求めるのでなく、ベターがよい。それが成功してIR36の栽培面積世界一という記録になった。
吉田昌一は数多くの論文や共著を発表したが一人で書きあげたのは英文の「Fundamentals of Rice Crop Science」(1981)だった。この本は現在、熱帯稲作農業のバイブルといわれる名著である。そしてこの本の執筆と発行で心身をすりへらし癌(がん)に冒された。


この本はインドの英語版をはじめ、中国、ベトナム、メキシコ、コロンビア、そしてインドネシア、タイ、さらにヒンズー語でも訳され開発途上国の稲作にとって救世主の役割を果たした。それで世界的権威のあるイギリスのウィリー社から出版の誘いが来た。学者にとってウィリー社から著書が出版されるということは、学問の世界の最高権威者ということだった。しかも印税(発行部数に応じて出版社が著者に支払う金銭)が入るという実益があった。しかし、版権がウィリー社へ移ることはIRRIのように世界中の恵まれない国々へほとんど無料で翻訳させることができなくなる。ベトナムの訳本は日本円にして100円、カラー写真などのない粗末なものだが飛ぶように売れている。スペイン語訳は中南米やスペインなどの救い主なのだ。吉田はウィリー社へ断りの手紙を書いた。この本の日本語訳は、彼の三回忌を記念して1986(昭和61)年8月23日出版された。

 


吉田がIRRIにとっていかに大切な人物であったかを物語るエピソードがある。次は夫人のよし子さんの手記である。

「吉田が原因不明の病気で苦しんでいた頃、ブラディ所長の帰国が決まり、次期所長の選出について、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていました。IRRI所長は今までは理事だけで決めていたのを、今回は上級研究員からも一人所長選考委員会に代表が出ることになったからです。投票の結果、吉田が当選しました。ところが一部のアメリカ人がおさまりません。投票をやり直すらしいという噂が広がりました。やっぱりアメリカ人が代表にならなきゃ困るらしい、などという声もあちらこちらから聞かれ始めました。


次の朝、吉田は誰にも相談せず、一人で所長に会いに出かけました。そして『選挙をやり直すという噂があるが、もしここで選挙をやり直せば、もはやそれは民主主義にもとづいた自由選挙とは誰も認めませんよ。』と所長に告げました。


アメリカ人は、民主主義に背くといわれることを、とてもいやがります。所長は顔を真赤にして一瞬考えた後、分ったと答えました。その日の午前中、当選者の名が発表されました。人々は驚き、その日のうちに吉田が一人で所長に会いに行ったことがIRRI中に知れ渡りました。」

このあと吉田は世界中に散らばっている上級職員から新所長についての希望をアンケートで集め、IRRI全職員からはグループごとに意見をまとめた。しかし、間もなく日本のガンセンターで胃癌(いがん)が発見され、手術となった。手術の三月後、ハワイで所長選出の委員会が開かれたが、かばんも持てない状態でも出席することにした。

 

「私がついて行くといっても、遊びに行くんじゃないよと言って許してくれません。私も作戦を考えました。幸い理事は夫婦で出席します。そこで所長代理に事情を話して私の交通費は自前、ただし吉田には、理事長から女房を連れて来るように連絡が入った、というふうに言ってもらえないかと頼んでみました。その日の夕方、吉田は顔を輝かせて帰って来ました。そして『君もハワイへ招かれたよ。いやぁ助かったなあ。』かくてIRRIの所長は国籍によって選ばない、あくまでもその個人の能力によって選ばれるべきであるという吉田の主張が通って、インド国籍のスワミナサン所長が選ばれた。当時吉田は、制癌剤を服用していたため、体重が43キロと44キロの間を行ったり来たりしていました。」


吉田は癌に冒された身でありながら常に未来を信じ、未来に生きた。「21世紀の熱帯植物資源」という最後の訳本を妻のよし子となしとげた時は、再発した癌によって片肺の胸膜にいっぱい水がたまって息が苦しいと訴える状態だった。しかし、開発途上国のための新植物資源の開発と、植物学・化学の協同、そして日本の研究者の視野の拡大を訴えた。


吉田は1984(昭和59)年1月23日、東京の半蔵門病院で死去した。IRRIは「プリンシパル・サイエンティスト」の称号を贈った。彼は今、川崎市の緑ヶ丘霊園の菩提樹(ぼだいじゅ)の下に眠っている。墓石に「稲の生理の研究では世界の第一人者、アジア各国をめぐり歩き、泥にまみれて米づくりの障害を追求した実践的研究者」とある。

(執筆者 稲葉克夫)