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丹羽 洋岳

祝福された出生

幻想的なランプの宿青荷温泉、いまや全国的に有名だが、この青荷温泉を開発した丹羽洋岳はすぐれた歌人でもあった。

 


山深い渓谷から外界に出ることもなく84年、いのちの終るまでランプの宿を守り、山峡の美しくまた厳しい自然と揺れ動く情念を短歌の形で格調高くうたいつづけた丹羽洋岳とはどんな人だったのか。


1890(明治23)年、洋岳は黒石市板留に父小一郎、母つるの長男として生まれた。本名は繁太郎、古くから板留温泉に客舎をいとなむ丹羽家に、みんなの祝福を一身にあつめて生まれたのである。

運命の※寵児(ちょうじ)のごとく生れけり
さくら咲き咲く春のみやまに

※寵児…特別にかわいがられる子ども

すくすくと育って6歳になり東英小学校に入る。成績が抜群だったので親は黒石の高等小学校に進学させることにした。その当時東英小学校には尋常科4年生までしかなかった。義務教育は4年だった。


板留から黒石までは13キロ、交通不便な当時のこと、徒歩通学は無理だったので、黒石八幡宮の宮司である佐藤家に下宿した。成績が大変すぐれ、殊(こと)に理科が得意だった。また、色白な美少年だったから「丹羽のアンサマ」と呼ばれみんなに可愛がられた。

 

ところが、11歳のこの少年をある日突然病魔が襲ったのである。発熱がひどく、毎夜全身がキリキリと痛み、少年を眠らせなかった。治療の効果がうすく、後遺症のため下肢の発育が大変おくれ、指先も自由がきかなくなった。


もちろん学校は退学、家の中に毎日こもりきりの生活となってしまった。


外出もできない病者の常で、少年は次第に小説や詩そして短歌の本を読みふけるようになった。なかでも短歌には心がひかれ、自分で作歌するようになったのは14歳のときだった。


東奥日報社の文芸欄に投稿入選、生まれて初めて自分の作品が新聞紙上にのった時、少年は最高のよろこびを味わった。病苦と闘う心に希望の灯がともった繁太郎は、草一とか田代駒一などというペンネームをつけて意欲をもやした。


平賀町の歌人仲間の柏葉吟社(はくようぎんしゃ)に入り作品を発表した。


1905(明治38)年、16歳のとき、黒森山浄仙寺の黒森学校に入学。ここは1829(文政12)年、浄仙寺の開祖山崎是空が開いた寺子屋の発展したものである。


寺子屋は学問ばかりでなく精神教育にも力を入れ、礼法はもちろん人間形成のための修練もきびしく行った。特に黒森学校は津軽地方一帯の青少年をあずかり、その育成に尽くしたことで黒石の歴史に残っている。


洋岳は、是空の高弟で親戚にあたる丹羽寂導にみっちり2年の間指導を受けた。

僧寂導骨を埋むる石洞を作り
厳しき行者とも成る


仏に仕える厳しい修行の様をまのあたりに見た洋岳の驚きと感動が伝わってくる。

 

黒森学校の2年間、繁太郎は寂導の教えを受け、ついに自分の人生観をもつにいたった。それは何よりまず自分の病気を克服することであり、また短歌の道に自分の心を打ちこむことであった。


当時、日本歌壇の第一人者与謝野鉄幹、晶子夫妻の主宰する新詩社は短歌添削会「金星会」をもっていた。当時この添削会を担当したのは石川啄木である。洋岳は石川啄木に数回作品を送って添削をしてもらった。添削というのはしかるべき人に作品を見せてなおしてもらうことである。1908(明治41)年6月17日の消印のある啄木からの手紙を、洋岳は大切にして保存している。短歌作品を添削した歌稿と、一生懸命にやるように励ました手紙は、貴重なものである。


このほか佐佐木信綱(ささきのぶつな)の「心の花」を愛読、石川啄木のかかわっていた歌誌「スバル」にも作品を送るなど、短歌創作にみせた洋岳の意気ごみは目をみはるほどである。

りんご園での明け暮れ

19歳から約3年間、洋岳は丹羽家所有の中野山のりんご園で過ごした。春から秋までを小屋に寝泊まりして、作業を手伝いながら短歌の勉強に読書に励んだ。

 

そのころの事である。すでに歌友となっていた五所川原の和田山蘭(わださんらん)が洋岳を訪ねて板留にやって来た。しかし、田代駒一というペンネームでは探しあぐね、さんざんな目に会って洋岳にようやく会えたという。


またこんな話も伝わっている。町から警官が来てそれとなく洋岳の様子を探るので不思議に思っていたが、その当時石川啄木は思想的注意人物としてマークされていたからだとわかった。

 

洋岳は啄木から短歌の添削をしてもらうため数回文通しているだけなのだ。洋岳20歳、明治時代も末のことである。その後若山牧水に添削してもらうようになる。

 

牧水は、これまでにない新鮮な言葉で、自分の心情を自然に託して歌った。有名な歌に


白鳥はかなしからずや空の青
海の青にも染まずただよう

 

がある。


牧水は、当時の短歌の世界に新風を吹き込んだ第一人者と言われていた。

 

牧水らの新しい動きが地方にも及んだ。


1909(明治42)年、五所川原に和田山蘭と加藤東籬(かとうとうり)が青森県の新派和歌の草分けといわれる「蘭菊会」を結成したが、洋岳はすすんでこれに参加し、「白日」という回覧誌第1号から短歌や小説を発表するようになった。


22歳で南津軽郡田舎館村の成田いとと結婚し、翌年長女りつが誕生した。

きさらぎの雲の夜明にしみじみと
「我」思ふ時わが子生れぬ


そのころ、洋岳は自分の生命と思う歌ができずスランプに陥っていた。雑誌に投稿もできず泣きたい思いの日々を送っていた。


そのような時期に長女が誕生したのである。自分の存在、生き方を思い惑いながら厳寒の夜明けを迎え、そして、自分の分身である新しい生命を目の前にする。生きることの不安と新しい生命をいとおしく思う洋岳の複雑な心境が隠されているような歌である。


東奥日報社は時代の流れにのり、初めて新派の短歌に注目し、紙上に掲載するようになった。和田山蘭が第1回の選者となった。これに力を得た洋岳は進んで作品を発表した。

若山牧水との出合い

若山牧水が青森県入りしたのは1916(大正5)年の3月だった。十数人の歌友や弟子に歓迎され、青森市、五所川原市の短歌大会に出席、その後一人となった牧水は、板留の洋岳を訪ね、20日間滞在した。


死ぬまで放浪を愛し、酒を愛した牧水は、漂泊の悲哀を格調高く歌ったが、その歌は今なお愛誦(あいよう)する人が多い。


かねて短歌作品の添削をしてもらっている洋岳は初対面とはいえ旧知のようなもの、31歳の牧水と27歳の洋岳、無償の短歌につながれた二人の青年歌人の胸に去来したものは何だったのか。思えば興味は尽きない。

 

春真昼火の用心の赤旗の
黒石町にひるがえる見ゆ
雪消水岸に溢れてすゑ霞む
浅瀬石川の鱒とりの群


牧水の目に写った大正初期の黒石の風物詩は歌集「朝の歌」の中に収められている。


牧水はまた短歌朗詠にもすぐれていた。板留滞在中に指導を受けた洋岳は、後年牧水流直伝の朗詠を人に聞かせて楽しみの一つとした。若山牧水の来県は青森県の短歌界に大きな刺激となり、弾みを与えた。


洋岳28歳のとき長男兵衛(ひょうえ)が誕生。短歌創作の方もいよいよ脂の乗った時期だった。


明治の末期に発行された短歌誌「東北」は「蘭菊会」その他が合併して、秋田や中央一流の詩歌人の原稿を招請し、地方誌として例のない盛んなものだった。洋岳はこの「東北」にも相当数の短歌を発表している。「東北」廃刊後、多くの短歌誌が生まれては消えていったが、その中で「はまなす」「黎明(れいめい)」と昭和まで続く歌誌が誕生、洋岳も意欲をもってこれらに短歌や小説を発表した。


大正12年には黎明叢書(れいめいそうしょ)として歌集「山上静観」を出した。巻末には自伝風の文章も入れた。この歌集刊行によって、洋岳は和田山蘭や加藤東籬についで青森県歌壇に確かな足跡を残すことになった。


この頃、夏になると東京から秋田雨雀が来て板留の丹羽旅館に滞在した。黒石を中心に文芸講演会を開き、出身地黒石の人々の文化的啓蒙に力を貸したのである。洋岳もこの偉大な新劇作家と夏をともに送って多分に影響を受けた。

 


洋岳31歳のとき二男収三が生まれたが、4歳になると浪岡町の福士家の養子とした。なお、収三の息子収蔵は現在、株式会社青荷温泉の総支配人として、祖父洋岳の意を守り、ランプの灯を絶やすことなく活躍している。

青荷の山住みを決意

人生の一転機と言えば当るだろうか。かねて念願だった青荷温泉開発を決意、渓谷の湯の湧く場所に母屋を建て、妻子と移ったのは洋岳が42歳のときだった。
青荷温泉は黒石駅から13.8キロ。途中一番高い峠に立つと、左手、山々の間に美しい櫛ヶ峰の姿がすっくと見える。そこから道は急な下りとなる。眼の下に雷山(いかずちやま)のなだらかな稜線を見ていると、どすんとすり鉢の底のようなところに落ちる。そこが青荷の温泉場なのだ。

冬篭(ふゆごも)る山家の窓の氷紋(ひょうもん)は
ただに険しき世のものならず


山住みは孤独に堪えることでもあった。殊に訪れる人もない積雪の中の暮しをうたったこの歌はよむ人の肺腑(はいふ)をつく。

 

 

ある夜この洋岳の夢枕に日蓮上人が立ち、いろいろ励ましたという。それを聞いた温湯遠光寺(おんこうじ)の檀徒(だんと)たちが、十方堂を建て洋岳の信仰をささえた。お堂は宿の裏の渓流にかかる吊橋を渡った目の前に建っている。


かやぶきで、内部奥の祭壇に日蓮上人の座像をまつり、立正安国の額を掲げて、洋岳は朝夕祈念を欠かさなかった。

み仏の国を夢見て儘(まま)ならず
あはれや渓(たに)の葛(くず)の葉の風


はかない人の世を嘆いて、仏の世界にあこがれるのも、病者洋岳の心境なのだ。


一方短歌創作は東奥歌壇や歌誌に発表は続けていたが、第二次大戦が激しくなり、「住み古(ふ)りて」の一連の作品を最後に休んだ。


1936(昭和11)年、長男兵衛が応召兵として出征した。

出でゆきてはるかなる子は吾子(あこ)ならず
日本武人(にっぽんぶじん)の一人なり今は


息子を戦地に送る親の心を洋岳も味わった一人だが、その後戦争をうたったものは少なく、「蘭の花咲く山陰に住みぬれど国戦へることは忘れず」がみられるだけである。


昭和17年父小一郎死去、2年後には母つるも世を去る。また1946(昭和21)年には、板留の本宅が全焼するという災難にあう。その間、和田山蘭が青荷に湯治に来て40年ぶりの会合は洋岳にとって救いだった。

 

終戦後、ふたたび、作品発表の機会がめぐってきて、新たな津軽短歌社結成にも参加。老いのきざしの見える洋岳だが創作意欲は衰えることがなかった。
1959(昭和34)年、詩人船水清、日本画家中畑長四郎らの編集で歌集「氷紋」を出版。10月青荷温泉地内に歌碑が建てられた。黒石文学会の努力による。

 

水上の櫛ヶ峰(くしがみね)はやも雪白み
とらへし岩魚(いわな)さびて細りぬ


「竜神の滝」の水の落ちる下手、池にどっしりとすわる自然石の碑は「岩魚碑」と呼ばれ人々に親しまれている。

青森県文化賞を受ける

1959(昭和34)年11月3日、歌人としての長年の業績により、第1回の県文化功労賞受賞の栄誉に輝いた。あらためてランプの宿の歌人の存在を、世の人々は知って賞讃した。


文化功労賞を受けたことにより、青荷を訪ねる人が増えていったのも当然だが、洋岳は実にあたたかく人を迎えた。


興が湧くと、不自由な体をおして渓流に下り、大きな石に腰をかけ、枯枝で石を叩いて調子をとりながら短歌を朗詠して聞かせた。若山牧水直伝の朗詠を、よく透る声で朗々とやる、敬愛する石川啄木、秋田雨雀、鳴海要吉の短歌を、そして自作を朗詠して自らも楽しむふうだった。

 

 

 

書きおくれたが、青荷は温泉宿をめぐって櫛ヶ峰を源流とする美しく澄んだ川が流れている。洋岳の短歌朗詠の声と渓流の音と相まって人々はしばらく夢幻の心境となるのだった。


1962(昭和37)年6月、黒森山浄仙寺の境内に洋岳2番目の歌碑が建った。

山寺の庫裏(くり)の後の栗胡桃

栗鼠(りす)にまかせて人影もなし

と刻まれ、秋田雨雀、鳴海要吉の碑とともに雑木山の静寂に溶けこんでいる。


この年また県褒賞を受賞した。また東京では5月12日秋田雨雀が帰らぬ人となった。
 

洋岳の作歌方法

洋岳は歌心が湧くと、日めくり暦をはがして余白に書いたり、広告の裏などに走り書きしたので必ずしも作品保存は十分でなく、散逸した作品も少なくないようだ。青荷を訪ねる人に頼まれると、断われず書いて渡した色紙も数知れない。


洋岳77歳の9月、津軽書房から「山霊」が出版された。歌集など死んだ後に出してもらえばいいと言う洋岳を、なだめ、やっと説得したのが詩人船水清と、日本画家中畑長四郎だった。「山上静観(さんじょうせいかん)」と「氷紋(ひょうもん)」の2歌集からと、その後の作品を加えて867首を収めた。78歳には詩文集「峡谷断章(きょうこくだんしょう)」が刊行され随想を8篇、詩6篇を収めた。


このようにして、洋岳の年齢を心配する友人、知人が洋岳のまわりにはたくさんあった。


1969(昭和44)年、この年から老年の健康を守るため、冬期間は板留で越冬したが、青荷短歌会を結成、月例会を開いて後進を指導することも忘れなかった。

 

この年の5月、世界の版画家としてその特異な画風をもつ棟方志功夫妻と弘前出身の下沢木鉢郎(しもざわきはちろう)画伯が青荷温泉を訪ねた。

 

ここに棟方志功が遺歌集「青荷峡」に洋岳を讃えた小文を引用する。(原文のまま)

あの暗いランプの下で、雪の穴のような部屋でよくもああした立派な生活と、歌が出来たものだと、感動ばかりです。


三度行き、三度語りつづけましたし、喜び合ひ ましたし、よい人々と連れ立って行き、宿った事も、どんなによかったか知れません。


下沢・船水両氏の大きなつながりが、からんで、丹羽洋岳翁との連らなりはどこまでもどこまでも全くな世界まで、深無量自在(じんむりょうじざい)、瑠璃光明(るりこうみょう)の不思議な世界のように光り漂っているようです。本当の事とモノはそんなものだと思います。丹羽洋岳翁もキットそういう眞中に歌詠している事でせう(しょう)。

永遠にも永劫(えいごう)にも歌詠(かえい)していることでしょう。


1974.2.18

1973(昭和48)年、どうしたわけか、この冬は青荷で越冬、2月急性肺炎にかかる。黒石市厚生病院に入院、家族の祈りも空しく、5月4日、帰らぬ人となった。84歳、最後の言葉は「さっぱどしたじゃ。」だった。


1974(昭和49)年、船水清・中畑長四郎・後藤半四郎の手で遺歌集「青荷峡」が刊行された。

(執筆者 山田義子)