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竹内 清明

竹内清明 写真

 

黒石地方でもっとも風流で景勝の地といわれるのは美しい流れと滝と紅葉で有名な中野神社の境内である。その鳥居をくぐり、境内へ下りる石段の途中に豊かな口ひげと胸もとに届く長いあごひげを生やした、やせて目の鋭い老人の胸像が高い台座の上に建っている。「私設知事」とも「ライオン」とも「雷様」ともいわれた明治、大正の大政治家、竹内清明である。

 

私設知事とはあだ名であり、はじめは反対党が竹内清明の権威が、当時の内務省(今の自治省)から任命されてくる正式の官選知事を圧倒しているのをみ、おそれをなしてつけたもので、ついには世間一般にも私設知事でとおり、青森市での常宿(じょうやど)の浜町塩谷旅館は竹内の県庁となった。このため「青森県には、二人知事がいる。」とか「役人の知事のほかに、それ以上の勢力をもっている知事がいる。」とかいわれた。中央から知事をはじめ県の首脳部が転任してくれば、まず第一に竹内の所に赴任のあいさつに上がった。

 

また竹内清明は「青森県の原敬(はらたかし)」といわれた。それは1918(大正7)年、日本に初めて本格的な政党内閣をつくった政友会総裁原敬(岩手県出身、1856~1921)の絶大な信任を得て近代青森県の難事業を解決していったからだった。青森県において明治・大正時代の三大事業といわれたのは岩木川の改修・青森築港・八戸の鮫漁港修築であった。そしてさらに交通機関の整備としての五能線・下北鉄道・黒石線の開通・教育振興のための官立弘前高等学校(今の弘前大学)の創設などの問題があり、これらすべてが原敬―竹内清明のラインで解決されていったのである。

 

岩木川は津軽平野の中小支流57川を合わせる文字通りの津軽の母ではあるが、河口の十三湖は日本海から吹きつける風砂と上流から流れてくる泥のため埋まり、水戸口(湖水の水が日本海に注ぐ箇所)がふさがれるため、春の雪どけ水の時期や夏の大雨の時は津軽平野3万ヘクタールの水田が洪水の災害にあっていた。

 

もちろんこのため岩木川の治水工事は300年前の江戸時代から行われ、明治に入ってからも調査を進めていたが、1882(明治15)年当時、その総工事費が82万円と算定され、その年の県予算が28万7千円の状態では着工不可能であった。それが竹内清明が代議士であった1911(明治44)年に国営事業として行われることになり、1918(大正7)年に工事費700万円でまず10ヵ年事業として着工された。以来今日まで70余年、なお事業は進められている。1988(昭和63)年完成した浅瀬石川ダムもその前身の沖浦ダムもこの事業の流れなのである。

 

現在八戸市は日本でも有名な工業都市であり、また八戸港は漁港、工業港、商港として栄えている。昭和40年代に魚の水揚げ高や売上げ高において日本一、二位を記録した。しかし、そもそもの出発点は鮫漁港の修築からだった。蕪島(かぶしま)や新井田川(にいだがわ)をもつ鮫漁港は江戸時代から難所の多い東回り航路の良港として知られ、八戸藩も整備に手を加えていたが三陸の激浪を防ぐことが出来なかった。

 

明治になって北海道航路や北洋漁業の重要基地として国家的に認識され、三八地方の指導者はこぞって県や国に対して港の整備を運動してきた。八戸の商人浦山太吉などはそのため家産を尽くし、また明治・大正の八戸地方の政界の指導者北村益(きたむらます)や神田重雄(かんだしげお)らは政治生命をかけた。これも竹内清明をとおして原敬を動かし、1919(大正8)年、国から60万円の補助金を得て着工、1933(昭和8)年241万の巨費を投じて近代的八戸港に生まれかわり、現在の発展のもととなった。

 

竹内が原敬にいかに信頼され、重んぜられたかを物語る次のエピソードがある。

 

この頃、青森県の事業で政府に関係するものは必ずまず原総裁の了解をとり、その指揮によってとり運んでいた。したがって県の役人であれ、代議士であれ、何十回となく原敬の所へうかがうのだが、総裁はまず「竹内はどうしている。変りはないか。」と尋ねる。
「達者でおります。」というと安心して「用事は。」と尋ねる。この時も「この問題は竹内が知っているのか。竹内は何と言っている。」と必ず聞く。竹内清明の健康について「風邪です。」などと答えると「ソレァ困る。大分悪いか。見舞いをやらねばならぬから、今日、宿へ帰ったら電報で容態(ようだい)を聞き、すぐ電話で知らせよ。」という。

 

この二人の厚い友情にはさすがの海千山千(うみせんやません)の政治家たちも心うたれた。原と竹内は晩飯を一緒に食べる時など腹の底から笑いあい、原の妻も女中もともに笑いのお相伴(しょうばん)をする。青森県の政治家で一国の大総理・大総裁とこのように交際でき、信頼された政治家は竹内清明をおいて、その前もその後もついに出なかった。

 

竹内が原に信頼された最大原因は、1911(明治44)年8月に行われた立憲国民党青森県支部の解散、そして青森県の政党を一県あげて政友会にするという前代未聞の大変革をなしとげたからである。

 

当時、日本の政党は政府与党の政友会と野党の立憲国民党(前身は憲政本党)の二大政党であった。そして青森県の政党人は野党系がほとんどだった。したがって青森県の政治は合同以後、1924(大正13)年の政友会分裂まで政友会の独走となった。明治初年から行政困難県といわれた青森県の県政が極めてスムーズになった。

 

竹内は50年間政治の世界に生きたが、中央に出たのは1908(明治41)年の総選挙に憲政本党の代議士として一期務めた時だけで、あとは黒石町会議員、南津軽郡会議員、さらに山形村(今は黒石市に所属)村長で、もっぱら時々に所属した政党の県支部・郡支所の幹部として裏方に徹した。彼は「兵に将たらず、将に将たり」といわれる。それは一般政治でも選挙でも党のリーダーや幹部クラスの動かし方がうまくて百戦百勝したことや仲間や後輩を政治家に育てあげるのがうまかったからである。明治・大正の本県出身政治家で竹内の世話にならなかったものはなかった。

 

大正の代議士で岩木川改修に生涯を捧げた安部武智雄は竹内を偲んで次のように書いている。

 

「わが県わが党の衆議院議員は工藤行幹(くどうゆきもと)・菊池九郎・榊喜洋芽を始め、那須川光宝(なすかわみつとみ)・関春茂・源晟(みなもとあきら)・徳差藤兵衛(とくさとうべえ)らほとんど翁の意中より出でざるなく」と明治の議会政治出発点における竹内清明の指導力を高く評価し、さらに明治末から大正・昭和にかけて活躍した多くの政治家が竹内の手によって生まれたことをのべる。黒石地方では加藤宇兵衛・北山一郎・鳴海文四郎・兼田秀雄の名があがる。人々は竹内を「孔明(こうめい)」といった。孔明はいうまでもなく、中国の「三国志」で活躍する知恵の深い、中国史上最高の作戦家である。

このように竹内清明は黒石が生んだ偉大な政治家であるが生まれは弘前藩士の子だった。1858(安政5)年、竹内多作の長男として弘前田茂木町(たもぎまち)に生まれ、幼名を千与(代)太郎、のち清明に改めた。清明は初め藩校の稽古館(けいこかん)に学んだが、1871(明治4)年、廃藩置県となって稽古館が廃止され、一家も浅瀬石に移住した。この時、多作は農地を分譲してもらったが、その土地は小作に出し、明治5年1月黒石市中町に移り商業を営んだ。しかし少年清明はもと藩校であった東奥義塾に入学して勉強したかった。そこである夜明け、そりに自分の荷物を積み、弘前めざしてひそかに家出したが、折悪しくその朝は小雪が降っていたので足跡がつき、取りおさえられてしまった。

 

父多作はそれまでいばっていた武士が禄を離れるとまるで生活力を失って家族が悲惨な生活におちいっている様を見、学問より職業が大事だといい、清明を大工の弟子にした。

 

しかし清明は血の気が多く、年上の若者たちを集めてそのがき大将となり、鎧びつの中の金を持ち出してネプタを作ったりして遊びまわり、結局大工の弟子は半年でやめた。

 

 

次に中町の大商人高橋家に丁稚奉公(でっちぼうこう)に出された。ここでも意地きたない客とけんかをしたりするので父から勘当(かんどう)(親子の縁を切ること)されるはめとなった。この時は平謝りに謝って許してもらった。後年、清明はこの父を憶い出しては感謝し、涙を流した。

 

竹内清明の生き方の特色は政治家として天下国家を論じていても、常に現実的であることで、父の教えを守って最後まで実業ということを大事にした。

 

将棋や碁の名人たちの打つ手にも疑問手が生ずるように、選挙の神様といわれた竹内にもやはり疑問手が生じた。大正14年5月、新制度のもとでの貴族院議員選挙が行われた時のことである。初め弘前出身で立志伝中の人物の、当時東京商工会議所会頭だった藤田謙一をおすつもりだったが結局、西郡の大地主をかついだ。この選挙には多額の金が飛びかい、人間性も金にまみれてしまった。藤田は破れたがすぐ勅選議員となって政界に出、のち、疑獄(ぎごく)事件にまきこまれた。当選した大地主は破産した。竹内はこのあと政界を引退した。そして1929(昭和4)年12月24日未明、72歳を一期(いちご)として世を去った。墓は黒石市保福寺にある。

 

歴史上、有名になっている政治家は英雄的で、権力的である。また、平和な時代に有名な人物は、その賢明さ、人間性のすばらしさで名を残す。しかし原敬は強力にして偉大な政治家であったにもかかわらず、英雄的印象を人に与えなかった。原は過去を語らず、理想をのべず、重点主義で、眼前に横たわる問題をてきぱき片づけていった。そして彼は大きな事を小さく取り扱うことに妙を得ていた。非常な事件であればある程、彼の手にかかると「なぁに」という一笑でたちまち平凡化されて片づいた。竹内清明のやり方もこれに似ていた。一県の政友会も三大事業の着手も青森県にとっては回天の事業(天の運行を変えるほどの大変革)だったがてきぱき片づけた。大宰相原敬は死ぬまで借家ずまいだったが、竹内も死んだ時、10万円の借財を残した。

 

竹内は父の教えを守って実業生活を大事にした。明治8年、彼が18歳の年に父に死なれたが、1877(明治10)年西南戦争に際して募集された巡査に応募し、終戦後は警視庁に勤務した。12年4月帰郷して東津軽郡役所に書記として勤務した。時、あたかも自由民権運動で国内は沸とうしていた。彼もこの運動に身を投じた。黒石に豪農加藤宇兵衛(1861~1928)とともに結社、益友会(えきゆうかい)を作って運動の拠点とした。1880(明治13)年1月末、本多庸一(ほんだよういち)、菊池九郎らが、国会開設の「40万同胞(どうほう)に告ぐ」の宣言文を飛ばして同意者を県内につのった時、竹内は南津軽郡を3ヶ月にわたって遊説して歩いた。この時も郡役所の仕事は続け、家族は黒石において単身赴任していた。そして土曜日に帰りその晩と日曜日と活動し、家庭を破壊したり自分が破滅したりする壮士的(そうしてき)政治活動はしなかった。

ただし必要な時は思い切って財を使った。弘前藩の重臣だった杉山龍江(すぎやまたつえ)には心服していたので、杉山のためには身命も惜しまなかった。ある時、杉山の言うがままに田地も禄(ろく)のかわりにもらった証書も全部差し出した。そのため生活費に事欠くことになった。しかし他家へ行った時は食事はすんだといって絶対ごちそうにならなかった。

 

1886(明治19)年、郡書記を辞職し、現在のりんご試験場の所に12ヘクタールのりんご園(興農園)を経営して、りんご産業の発展に尽くした。1898(明治31)年、下北半島の宿野辺(しゅくのべ)に農場を開き、福民部落を創設し半島山間部に稲作を伝えた。竹内は1887(明治20)年から山形村の戸長(こちょう)や村長となって村勢の発展に尽くしたが何より村の基本財産の造成につとめ、その中心にりんご栽培をすすめ、国からの土地払い下げを積極的に行い、園地は村全体で400ヘクタールに及んだ。そしてさらに販売方法を改良して山形村信用販売購買利用組合を結成して地元民の利益を守った。

 

竹内はこのほか日露戦争後、日本領となった樺太(からふと)に漁場を開いて10万円を手に入れたり、新聞発行や広告印刷を行い、現実にしっかりと足を踏まえた生き方をした。
しかし政治に深くかかわっている以上、出費は激しかった。このことを老母かつはいつも心配していた。1905(明治38)年の暮、78歳の老母は牡丹平で重い病いに臥した。この時ちょうど樺太漁場の運営資金が手に入ったので、竹内は娘に2万円もたせ、牡丹平に向かわせた。この金を見た老母は「千代太郎も金が身についたか。」と大喜びで枕の下にその金を入れ、安心して3日目に目を閉じた。

 

 

1899(明治32)年夏、衆議院議長星亨(ほしとおる)が所属する憲政党が山県(やまがた)内閣の増税案に賛成したことの弁明をかね、遊説(ゆうぜい)のため青森・五所川原・弘前を経て黒石へやって来た。青森県では増税反対の憲政本党が各地で抗議運動を行い、黒石がその最大拠点だった。

 

8月7日、星は田舎館村をへて黒石に入って来た。先頭には消防の小頭(こがしら)たちを立て、憲政党党員が前後を固め、星は特別あつらえの白いコーモリ傘をさして二人びきの人力車に乗り、10人ほどの書生がその車に手をかけて護衛していた。もちろん、県下各地より招集された警官たちは群衆を制止していた。しかし、一行が前町の「増税絶対反対」の大アーチをしり目に上ノ坂の演説会場へ向かおうとした時に、両側の町家の屋根から屋根石が雨あられと投げつけられた。一行もすでに青森の第一歩で仕込杖(しこみづえ)を血でぬらしていたから、かねてこのことのあることを予期しており、壮士たちもピストルで応戦してきた。また星は特別製のコーモリで石をはね飛ばしたが、車夫が怪我をしたため酒屋へ身を隠した。警察署長も倒された。この時、竹内清明は屋根の上で片肌ぬいで党員を指揮していた。事件は弘前の師団から憲兵隊(けんぺいたい)が出動して鎮まったが、警察の調べは竹内が呼ばれただけで処分はなかった。

 

結局、星は300名の前で演説し、反対派は愛宕神社(あたごじんじゃ)に3000名を集め、1ヵ月後の県会議員選挙には与党の憲政党が5名の当選者なのに、野党の憲政本党は24名当選させた。この時、星は青森県は敵にすれば大変だが、味方にすればまた大変力強いと報告した。この星が政友会設立に大いに活躍して暗殺され、竹内が1911(明治44)年、国民党(憲政本党の後身)を脱党して一県一党の大政友会を結成し、政友会の竹内清明か、竹内清明の政友会かといわれるようになるのも不思議なめぐりあわせであった。

 

彼の晩年の心境を孫の詩人、竹内二郎は次のように伝えている。


激しい暑熱の打ちつづく夏であった。

 

ある夕、妹と私と、園庭の涼み台に座って、暮れる夏雲を眺めていた。
そんな処へ、吐月峯(とげっぽう)(灰ふき、タバコのキセルをたたく竹の筒)を仕こんだタバコ盆をたずさえ、ウチワを腰に手ばさみ、甚平(じんべい)姿の祖父も仲間入りして来た。そして元田さん(元田肇(もとだはじめ)・政友会筆頭総務、多くの大臣を務めた)から贈られた詩を低い声でうたいだした。

 縦横(じゅうおう)に策を計って東奥に連なる

熱血そそぎ来る酬国(しゅうこく)の情

 麟閣(りんかく)の功名は人の画(えが)くに任せ

居然天下の老書生


この詩は次のような意味をもっている。

思うまま策を立てて東奥の地方を受け持ち

国家にむくゆるために熱血をそそいできた

国家や国民に賞讃される功名は人にゆずり

そのまま天下の老書生でいる

 


金鳥香と、少し錆びを帯びた祖父の声が、濃くなる暮色のしじまの中に、溶けあっていった。

 

ふと妹は、その時習っていた教科書の、張良の逸事(いつじ)の黄石公(こうせきこう)との出会いや張良の隠とんの事を話し始めた。漢の建国に功のあった張良は若いとき黄石公から兵書をもらい学問に励み王侯となった。しかし後王侯の地位をすて山中で豚を飼い、豊かな人生を送ったという伝説がある。

 

低吟を終わって、しばらく、うっとりと黙思していた祖父が、何気なく、妹の言葉に耳を傾けている風であったが、やがて
「お祖父さんも、張良のようにするのだよ。精一杯の仕事をして、仕事をなし終えれば、誰もわからないように、どこかへ消えてしまうのさ。」

(執筆者 稲葉克夫)