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佐藤 雨山

佐藤 雨山 写真

生い立ち

雨山は、1893(明治26)年6月1日、西谷彦太郎、むらの二男に生まれた。本名は耕次郎(こうじろう)であったが、屋号ヤマウをひっくり返し雨山と号した。秋田雨雀にならって雨も入れた雅号にしたという話もある。生家は前町49番地(現在の三上医院のところ)にあり、近江商人の流れをくむ呉服商、金物商であった。 祖父西谷平兵衛は、黒石の大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)といわれるほどのうるさ型で、町会議員を務めた。平兵衛の子供は、男子が彦太郎一人のみで、他は女子ばかりであった。この彦太郎を佐藤家の養子にしている。なぜ、そうさせたかをみていくことにする。


日本国民の兵役義務を定めた徴兵令は、1873(明治6)年に出されたが、これによると、男子は満20歳になると徴兵検査を受け、抽選によって軍隊に入れられた。しかし、一家の主人、養子、徴兵在役中のものの兄弟、罪科のある者のほか、代人料270円を納めた者は、兵役を免除された。このため、戸籍だけの養子縁組による徴兵のがれが可能であり、大いに利用された。


よって、平兵衛が役場の戸籍係に戸主が消滅しそうな家を調べさせ、ここに彦太郎を養子に出したのは、徴兵のがれのためとみられる。後に彦太郎が西谷姓へ戻ると、彦太郎の二男の雨山が佐藤姓を継いだ。しかし、住いは前町にあって生活はなんにも変化しなかった。雨山は、幼年時代から「道化つくりで、おもしろい童」であったと、母親が言っている。このようにおどけてみせる子供であったところが、後に述べる「まみし村」に発揮されてくることになる。

植物採集の毎日

祖父平兵衛が町堰沿(まちぜきぞ)いに別荘(現在の東公園(あずまこうえん))を造り、畑を耕し、草花を育てたので、家族皆んなが植物好きになった。ここで過ごしたことが、雨山を南津軽郡立農業学校へ進ませ、植物への関心を高めさせていったものと思われる。また、父彦太郎と兄順一郎は、この「黒石人物伝」(別掲、りんご界の進歩派・西谷彦太郎とその仲間たち)に載せられてあるように、りんご栽培研究の道を選んだ。平兵衛は、家業を継がず、りんごの研究に走った二人を自分の意にあわないと許さず、雨山を可愛いがった。


ところが、雨山の植物好きは家業をほったらかして、身体から植物採集の用器の胴らんをはなさず、山野を歩きまわる生活を送った。そのうち、学校の教師などいろいろな職業の人たちがこの山歩きに参加するようになり、青荷温泉、黒森山、南八甲田山の櫛ヶ峰、岩木山へ出かけた。雨山は足が早く、付いていくのに骨がおれたという。途中、立ち止まって植物の話になる。

 

「これは薬草になるもので○○という。これは花が美しい。これは実がきれいである。」

 

 

その説明を聞いた者は、雨山が大学で系統的に学問を学んでいないのに、なんでもよく知っているので、どうしてこんなに知っているのか不思議に思ったという。この一緒に山歩きをした人たちは、雨山を中心とする「山岳会」を結成した。


採集した植物は、ていねいに標本にして保存した。数千種の標本の一部は、青森県立郷土館と黒石高校の生物室に保存されてある。また、克明に写生して図譜にした。雨山があるがままの植物の姿を写そうとして工夫したものにガラス絵がある。採集物の上にガラスをのせて写していくガラス絵は、形をそのまま上からなぞっていくので大変よく描くことができたが、永く保存するまでにいたらず成功しなかった。町の人たちもよく薬草を尋ねに訪れたが、咳をすればキキョウの根、風邪をひけばヒメハギの陰干し、精力が減退すればイカリソウ、淋病には土アケビ、犬の屁(ドクダミ)などと教えたという。


採集したものを「日本植物図鑑」で調べてもわからない時は、母に旅費を出させ、著者の牧野富太郎の ところへ二、三度尋ねに出かけた。牧野富太郎は小学校を中退、独学で植物学を研究した近代日本の植物分類学の確立者である。このようにして新発見したスミレのことを、「浅瀬石川郷土志」のなかで、次のように述べている。

 


「ミチノクスミレ」

ビオラ ムツエンシス ナカイ
Viola mutsuensis nakai

菫(すみれ)の一種で私は本県で始めて発見したものである。尤(もっと)も未(いま)だ此処(このところ)より他に全く産地を聞かない。此の種(しゅ)を私は、先年雑誌園芸の友誌上でクロモリタチツボスミレと仮に命名して置いたが、其後、理学博士中井猛之進氏が植物学雑誌上で上記の如く発表し、和名も上記の如くされた。 ムツエンシスの名称は陸奥の国名から採ったものである。この菫はよく路傍(ろぼう)にあるタチツボスミレに似てゐるが、花部に於いて彼と是は全く別世界のものである。正に珍中の珍として推奨に価する。


このすみれは、現在の学名が「アイヌタチツボスミレ Viola sachalinensis Boiss(ビオラサ ハリエンシス ボアス)」となっている。自生地の一部を、わざわざ陸奥とか青森県と明記しているのは、雨山が発見し、紹介した功績のあとである。


植物にかけては「黒石の牧野富太郎」といわれた雨山にも失敗談が残っている。1945(昭和20)年、第二次世界大戦が終ると食糧難の時を迎えた。三男の彰一が、コーヒー豆をひく器具で大豆を黄な粉にして食べたところ、しばらくして手足の末端がしびれ始め、それが身体の中心部である心臓に向かってくるので、どうしようもない不安が増してきた。


「ああ、これで死ぬのかな。」と感じた時、母が
「父さん、あれでないか。」というと、雨山は
「うん。」と言葉少なに答えると、急いで前町の小坂医院(現在の囲碁センターのところ)へ運んだ。医師は雨山の話を聞くと、下剤を与えて毒物を体外へ出させ子供の命を助けた。雨山の妻の言った「あれ」は、「トリカブト」のことであった。 

 


トリカブトの根は、矢じりに塗って毒矢にするほど毒性の強いものであるが、適量に使用すると強精剤にもなる。雨山はこれをコーヒーひきでひいて粉末にし、コーヒーひきを掃除したものの、トリカブトがいくらか残っていたのであろう。それが大豆に混ってしまったから、人体実験を行ったようになった。植物の大家が、危うく我が子の命を落とすかも知れないところまでいき、とうとう医師の手を借りなければならなかったという話である。

 

「まみし村」のこと

「どんでもいい、まみしばいい。」


どうなってもよい、健康であればよいという意味の津軽弁で、きわめて楽天的な言い方である。「まみし」は、まめまめしいが訛ったものである。


雨山は、商売をそっちのけにして山野を歩きまわるので、大商家の屋台骨も傾いてきた。とうとう一階は、1929(昭和4)年にできた黒石消費組合に貸したため柴久(柴田久次郎の呼称)一家が住み、雨山の家族は二階に住むようになった。ここに、柴久が丸太小屋風の喫茶店をつくると、自然と常連ができていった。この人たちは、夜になると集まり、トランプをする。トランプに飽きると黒石の漫談(おもしろい話)に入る。談話のうまさは、雨山であり柴久であった。興に乗ると雨山夫人の琴に、尺八とバイオリンが加わり三部合奏が始まる。金はないが、いつも陽気な仲間が集まったので、誰いうとなくここを「まみし村」と呼ぶようになり、村長にはなんでも知っている雨山が推されてなった。


次に述べる三話は、どこまでが本当かわからないほどおもしろいエピソードなので、この点を頭に入れて読んでいただきたい。


雨山は、弓道もよくした。手先が器用で、弓、矢弦も手造りであった。自称三段の腕前といい、広いかくじ(裏庭)に矢場をつくって、まみし村の村民にも稽古をさせた。

 


ある年の春季大会には、紅白の餅をつくり、賞品を持ち寄ったまではよかったが、そこは歴史にうるさい雨山のこと、鎌倉武士の犬追物(いぬおうもの)をまねて鳥追物を行うことにした。


そこで、柴久の飼っているにわとりを小屋から放し、それを皆んなでねらって射た。たまらないのはにわとりで、叫びながら逃げまどい、最後に柴久の住居に駆けこんだ。柴久の婆様は烈火のごとく怒り、鳥追物の猛者たちもほうほうのていで逃げ出した。


また、雨山は長坂山で発見した石製の矢じりをたくさんもっているので、これを矢竹の先につけて時々試射することがあった。前に述べた「トリカブト」の粉末も、この様な時に試したものかも知れない。ある年の春の初めに、盛りのついた猫が屋根の上でうるさくてしようがない。業をにやした雨山が日頃の手並みをみせてくれようと、秘蔵の鏑矢(かぶらや)をつがえ、弓を満月のごとく引きしぼって射た。確かに手応えがあったと思ったが、猫の悲鳴は聞こえてこなかった。ちょうどこの時、甲裏町(現在の浦町一丁目)の阿部そば屋の女房が前堰の端にしゃがんで小便をしていた。すると、ブーンと異様な音がして飛んで来たものが格子窓にグサと突きささった。驚いて家の中へかけ込み、翌朝、調べてみると弓の矢であった。そば屋のおやじは、「これあ、授り物だ。」
とばかり、縁起をかつぎ、この矢を恭(うやうやし)く神棚にあげ、さっそくこの日から屋号を「当り矢」と改めた。


ある時、相沢三郎助笑坊(えみぼう)君というまみし村の書記に子供が生まれた。村の人口が一人増えたのだから皆んなでお祝いしようということになり、村民大会が開かれた。なにせ故事来歴(こじらいれき)にうるさい雨山たちなので、古式にのっとり「鳴弦(めいげん)の式」を行うことに決まった。鳴弦とは弓の弦を手で引き鳴らして妖気を払うまじないであり、天皇や貴人の誕生の時などに行われるものである。いくらかずつお金を出しあい、直径2メートルもある紅白の鏡餅を作った。

 

七五三縄(しめなわ)を張った台にこれをのせ、行列をつくって相沢家へのりこんだ。家族が面喰らってうろたえているのにかまわず産室に入ると、アカネコと呼ばれる加藤祥文(かとうしょうぶん)がふところから祝詞(のりと)を出して「高天ヶ原(たかまがはら)に雨が降り……神かけ神かけ申さく……」
としかつめらしくひとくだり読み上げてから、雨山が秘蔵の弓をビンビンと鳴らし、一同がひきあげた。ところが一週間もたたないうちに、この式の効果もなく子供が死んでしまった。これにはさすがの村民も困ってしまい、葬式の時は村葬にするなどの出しゃばりをせずに謹んだという。

 

郷土史研究家として

雨山と山野を歩いた想い出を、柴田久次郎は、『ゆりくれない』の中で次のように述べている。


雨山氏に引率されて、堅雪を渉(け)って櫛ヶ峰を踏破した記憶はまだこの間のように鮮明です。正規な学校を出たわけでもなさそうだが、どこであんなによくも知識を貯えたものだと驚くほど博学でした。長坂山の鱈がしらの草山が、畑の畦跡のように条(すじ)立っているのを、先住民の略奪農耕の跡だと教えてくれたのも雨山氏であり、手ごろの石がそこここに散在していると、ストーンサークルだとか、石ころが3、40もかたまっていると、ケールンだとかいって先住民族の遺跡だということや石のやじりをといだ跡など、遠い未開の祖先の生活に、果てしなく想像の翼をかりたてさせてくれたのも先生です。


もの好きで、村へゆくとその土地の老人に話を聞いた。昔がどうであって、今どうなっているのかを尋ね、聞き書きしたものを民話として残した。雨山が書き留めないと、忘れられていく話であり、先祖の貴重な遺産となっている。それまで黒石の歴史は、津軽信英が弘前より分家してからのことばかりであったのを、原始時代から始まることを紹介してくれたのも雨山である。山岳会の人たちも植物から郷土史へと関心を拡大し、黒石郷土史研究会と組織を改めた。


自らも*(がむし)(黒石市温湯)の絵を上手にかいて、どこどこに山賊がいてどうしたという説明をする。

*→上が我、下が虫


話があまりにもおもしろくて、本当にあった話かどうか疑問に思ったという生徒もいた。ある時は、授業中に、「あの山のあれ。」と、何かを想い出した。すると教室に生徒を残したまま、一人で山へ出かけてしまったという。
歯に衣(きぬ)をきせずに話をするが無欲に徹した。浪岡町北中野にある墓を、南北朝の長慶天皇陵(ちょうけいてんのうりょう)として証明してくれれば、お礼はいくらでも出すという依頼は、がんとして首を縦にふらなかった。『黒石風土記』を出版するにあたり肖像写真を入れようとしたが、「やっぱり入れない方がいい、入れたとて何んにもならない。私は私の名を売ったり、顔を売るために本を書くのでない。若しも私の写真を入れるだけの頁数を、紙数があったら、それだけ別な資料、内容をのせた方がましである。」
といっている。ここには、雨山の名誉や売名を嫌う姿勢がはっきりみえる。これは、黒石の人にみられる反骨精神のあらわれでもある。

 

ある時、郷土史研究を志そうとする鳴海静蔵が雨山を訪れると、次のように言われたという。


「こうした郷土史だのやっていると、カマドコ(財産)返(け)すからやめろ。」
「先生、ちょうどカマド返したとこだはで。」
「それだばやってもよい。」

 

黒部側支流河川にある祖母谷温泉にて(左手前が佐藤雨山)

 

雨山が好きなことばかりやっているので、ヤマウの家も傾きだし、とうとう前町を売り払って浜町へ引っ込んでしまった。それでも妻ハツは、愚痴ひとつこぼさず呉服店の仕立物(したてもの)をして四男一女を育てた。二男哲男は、昆虫に興味をもち、東京目黒の林業研究所に入って研究を続けたが、第二次世界大戦で戦死した。雨山は自分の研究を継ぐものとして期待していたであろうから、その落胆も大きかったものと思われる。子供たちは、父から何かしてもらったということはないが、父に頼らず独立していけという無言の教えをもらったと思っている。


雨山は郷土史はもちろんのこと植物、なかでも薬草にくわしかったが、昆虫・野鳥についてもよく知っていた。版画の話をし、詩も書いた。弓矢を自ら作るなど、あらゆることに興味をもち、それをとことん突き詰めないと気がすまなかったという気性の持ち主であった。しかし、植物を写す時のガラス絵は成功しなかったものの一つである。このような関心の幅は、まさに博物学(はくぶつがく)である。博物学は、地球上のあらゆるものへ知的好奇心をもち、ものを見る技術を高めていくもので、リンネ(1707~78)の分類学や、ダーウィン(1809~82)の進化論がこれにあたる。日本では植物好きな薩摩(さつま)藩主島津重豪(しまずしげひで)(1745~1833)や、植物図譜を出版しようとした平賀源内(ひらがげんない)(1728~79)がいる。


明治からの学問は、対象を幅の狭いものにし、原理からはずれたものや心霊現象などを苦手としてきた。そこには学ぶ学問はあっても、楽しむ学問は忘れられていた。雨山は自分の研究は郷土愛であると『勝地浅瀬石川』で述べている。


自分は学者でもなければ専門家でもない。たゞ郷土愛に炎ゆる一介の貧乏商人である。生来自然界が大好きで、やゝもすれば本業を次にして山川草木と親しみたがる。数年前から又郷土史に深い趣味を持つやうになった。ところが元来、見解が浅く学識が足らず、又文が拙なくして己(お)が期待を実現せしむる事の出来ないのを遺憾とするのである。併(しか)し自然を愛し郷土を愛する点に於いては強い自信がある。

 

雨山は酒もたばこもやらなかったが、晩年、腎臓をわずらっていた。1959(昭和34)年、柴田女子高等学校で授業中、脳内出血で倒れ、10月1日他界した。67歳であった。教えを受けた黒石郷土史研究会と黒石文学連絡協議会の人たちは、1966(昭和41)年、雨山がこよなく愛した黒森山の浄仙寺(黒石市南中野)境内に文学碑を建てて、雨山を偲んだ。碑文は、詩集『津軽野草図』によった。



キバナノコマノツメ
雨山

翡翠(ひすい)を刻んだ品のよい葉
エメラルドのうてな
黄玉(おうぎょく)をちりばめた
美しい可憐の花びら
全く宝石細工の植物だ


(執筆者 篠村正雄)