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境 形右衛門

 

“黒石に過ぎたるものは2つある。
前の小堰(こぜき)に境形右衛門”


この文句は、江戸時代後期、津軽地方で節をつけて謡われたものであるが、「前の小堰」というのは、黒石の町を流れる町堰のことで、境形右衛門が家老をつとめていた時代に開削された。

 

私が子供の頃は、この町堰の水の音を聞きながら、眠りについたものである。

 

この町堰にしろ、町を挙げての「盆踊り」にしろ、「馬乗り」にしろ、弘前とはまたひと味違った“あずましい”独特の小世界をつくったのは境形右衛門の思い切った施策によるものであった。

 

ところで、黒石の名家老といわれた境形右衛門は、実は一人ではなかったのである。襲名によって、初代から3代目まであるわけだが、ここでは、初代の境形右衛門と2代目の境形右衛門のことを語ることにしよう。

 

境家が黒石に住みついたのは、津軽信英(のぶふさ)が黒石に分家してきた頃(1656年、明暦2年)より少し前のことで、当時は北山田の姓を名のっていた。

 

初代の北山田源十郎は、はじめ弘前藩の「村老(むらどしより)」(黒石村の村役人)であったが、1666(寛文6)年黒石2代領主津軽信敏(のぶとし)に召し出され、給米30俵、金蔵役に任ぜられたという。2代庄兵衛も同じ給米で同じ役を勤め、北山田を堺と改姓した。3代堺藤兵衛、4代堺藤兵衛(襲名)も同じ役を勤めた。5代堺源右衛門は、4代藤兵衛の弟で、知行30石に召し直され、蔵奉行を仰せつかった。6代目が形右衛門である。この形右衛門のときに、「堺」の姓は「境」に改められた。

 

1750(寛延3)年の黒石の「分限帳」には、平内目付格で金蔵方を勤め、三人扶持(ぶち)とある。この頃は形右衛門の父がまだ現役であったので、三人扶持(三人扶持は1日1升5合の支給)であったのであろう。その後、家督を相続し、勘定奉行から用人に登用され、さらに家老に昇進した。役高(江戸時代、役職の高下に応じて支給される禄高)と合せ知行高(所領を支配すること)は230石となった。

 

1766(明和3)年1月、津軽地方を大地震が襲い、黒石領でも死傷者170人、つぶれた家・焼けた家575軒という大災害を受けた。明和の大地震である。
形右衛門は、ただちに米蔵を開いて各家に1俵ずつ配り、5月には、江戸屋敷の方から金子(きんす)2000両と米1000俵を融通してもらって、被災者に米を分け与え、さらに被災者に2%の低い利息と4年の長期返済で金を貸し付けた。領民は大いに喜び、震災の復旧は急速に進んだ。一方、家臣に対しては、俸禄を1人1日4合の扶持米だけにして支出をひきしめた。「あっぱれ形右衛門」の評判は、旅行者が書いた『津軽見聞記』によって、江戸にまで伝わった。

 

1773(安永2)年、形右衛門は婿養子の藤兵衛に30石を分知し、堺の姓を境に改めた。形右衛門は政務のかたわら俳句をたしなんだ。俳号を現夢庵了静と称し、黒石の俳壇を指導し、益田木鴎などの弟子を育てた。彼の句は残っていないが、当時の津軽の俳壇の傾向から推して、洒落風の句風であったと思われる。才気縦横にしてユーモアと洒落に富んだ人であった。

 

1783(天明3)年、東北地方を襲った天明の大飢饉の始まった年、形右衛門は自分の給禄200石と長子八百次郎の給禄30石を他の家臣に率先して黒石領主に上納した。

 


同じ年の12月6日、境形右衛門は病気で亡くなり、円覚寺に埋葬された。享年は伝わっていない。恐らく50代であっただろう。
以上が初代の境形右衛門のことであるが、彼は4代寿世(ひさよ)・5代著高(あきたか)・6代寧親(やすちか)の黒石領主に仕えたことになる。いずれの領主も、彼の才能を認め、存分に腕を振るわせた器量の大きい領主であった。


このことは、2代目境形右衛門(八百次郎)にもあてはまることで、黒石領主には、人を見る目があったと言うべきであろう。後に2代目形右衛門を襲名することになる境八百次郎は、1783(天明3)年家督を相続し、ひきつづき大目付の役職を勤め、60石を支給された。

 

天明の大飢饉もようやく終らんとする1787(天明7)年、黒石の元町一帯で思いがけない事件が起った。「黒石市家騒動(くろいししかそうどう)」とよばれる事件である。

 

この年の7月7日夜、元町で造り酒屋を営んでいた沢屋孫兵衛方へ、弘前藩士5人がやって来て、一振りの刀を入質せんとせがんだ。入質とは名ばかりで、実は金銭のゆすりであった。番頭や主人に体良くことわられた5人は、抜刀して店の中で暴れだした。

 

沢屋の家人は、町奉行へ知らせたり、町内の若者達を集めたりした。そのうち、黒石陣屋の変太鼓が打ち鳴らされ大騒動になった。
まず駆けつけたのは堰役の山田清左衛門で、若者達の加勢を得て5人と切り結んだ。大目付であった境八百次郎も馬で現場に駆けつけ、槍を持って取り鎮めを指揮した。

 


どんどん人が増えてくるので、形勢不利と見た5人の狼藉者たちは、灯火を消して逃走をはかった。4人は闇にまぎれて逃走したが残る1人は捕えられ、弘前藩に引き渡された。

 

山田清左衛門は負傷しながらもよく戦ったということで、弘前藩から賞詞を賜わり、医療費を支給された。

 

この年の冬、境八百次郎宅へ弘前藩士が数人訪れた。先般の事件の手柄を祝福したいという挨拶であったが、実は仇討が目的であった。いち早くこれを見破った八百次郎は、彼らにつけ入るすきを与えず、御馳走して帰したという。

 

1791(寛政3)年、八百次郎は家老格の村代に任命され、2代目形右衛門を襲名した。村代の職は、1792(寛政4)年に罷免されたが、1809(文化6)年、黒石津軽家が1万石の大名になった年、黒石藩初代の家老に就任した。

 

2代目境形右衛門も初代形右衛門とよく似て機知に富んだ人であったらしい。物見興業を盛んにして近郷近在から人を集め、黒石の町を繁昌させようとした話は、初代形右衛門のやったことか2代目形右衛門のやったことか不明確に書かれてきたが、初代から2代目にその政策が受け継がれたと考えればよいであろう。

 

温湯に遊廓(ゆうかく)をつくったりして領外から客を集めた話は、安永年間(1772~80)の『手本山形道中記』にも見えているから、初代形右衛門の施策と見てよいだろう。町堰をつくって「黒石に過ぎたるもの」と謡(うた)われたのも初代形右衛門の方である。

 

馬乗りや盆踊りで人を集めた話は、天明の大飢饉の後のようだから、2代目形右衛門の献策によるものと見てよいであろう。

 

馬乗りは、5月5日の節句の日と6月1日に、柵ノ木の山形街道(現在の国道102号線)で行われた競馬である。明治になってからは、馬場はりんご試験場の近くに移され、さらに追子野木の土場に移された。

 


弘前藩の方では、自領の領民が黒石に集まるので、それを阻止しようとしたことがあった。馬乗りの乗馬を黒石領内に入れまいとして、弘前領と黒石領の境い目の通行口に、縄を張ることを黒石に命じた。形右衛門は一丈(3メートル)の高さに縄を張ったので、馬も騎手も縄の下を通ることができた。まるで、「一休さん」のとんち話のようだ。宗藩の指示に従ったふりをしながら、巧みにこれをかわしていたわけである。弘前藩のこうした経済封鎖も、黒石6代目の領主寧親が、弘前9代目藩主になったことで、自然と解消されていった。

 

盆踊りは、七夕祭燈篭(黒石ではねぷたのことをこう呼んでいた)が終った後の7月13日から20日まで、盆中の満月の日をはさんで行われた。黒石の盆踊りは、2代目形右衛門の時代にあたる文化文政期に発達したといわれる。

 

最初は夜に催された群衆の踊りであったが、文化文政(1804~30)の頃から、町方5カ組(山形町組・鍛冶町組・中町組・上町組・元町組)で踊り子を出す「組踊り」が中心になってきたようである。もちろん、古い型をよく保っている「流し踊り」も行われていた。

 

この「組踊り」と「流し踊り」が黒石盆踊りの特色で、天保の頃(1830~43)から「よされ節」が人気を得て、これも黒石盆踊りの特色となった。近郷の弘前領からも農民が見物に集まり、町中大いににぎわった。

 

 

黒石の盆踊りは開放的なことで知られ、陣屋を開放して「廻り踊り」をやらせたり、武士や農民も身分を隠して町人にまぎれこんで踊ったりした。この時だけは、身分や格式を忘れ、日頃の憂(う)さが晴らせるわけで、藩主も形右衛門も、統治上も良策と見たのであろう。

 

こうした物見興業を盛んにする政策は、周囲が弘前藩領であった小藩の一つの知恵であった。

 

2代目形右衛門が力を注いだ最後の仕事は、黒石津軽家の墓所を保福寺(ほうふくじ)にも設けるという仕事であった。これまでは、江戸の津粱院(しんりょういん)や常福寺(いずれも東京都台東区にある)であったのだが、国元にも菩提寺があった方が、法事・参詣などで都合がよいと考えたのであろう。そうするためには、弘前宗家の承諾も必要なので、よく弘前にも通って掛け合ったようである。

形右衛門の粘り強い努力がようやく報いられ、8代親足(ちかたり)(初代黒石藩主)の子久鶴(ひさつる)が1816(文化13)年に没すると保福寺に葬られた。さらに、10代承保(つぐやす)の子が1850(嘉永3)年に亡くなった時も保福寺に葬られた。その結果、幕末には、歴代領主の法事は保福寺で営まれるようになった。

 

境家の墓所のある円覚寺山門

 

1821(文政4)年4月、修令(しゅうれい)と改名した形右衛門は、下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)(相馬大作)が、弘前藩主津軽寧親を白沢付近で待ち伏せしているという情報が平内の狩場沢番所からもたらされると、自ら馬を走らせて、弘前城に急報した。そのおかげで、寧親の一行は通路を変更し、事なきを得た。


寧親は、先代形右衛門も修令も世話になった主君で、この父子のよき理解者でもあった。大事な場面で、主君の恩に報いたわけである。

 

この2代目形右衛門は、1860(万延元)年に亡くなった。

 

修令の子も八百次郎と称し、1856(安政3)年、家老に就任して3代目境形右衛門を名乗った。3代目形右衛門については、史話も伝わっていないので、話はここで閉じることにする。

 

江戸後期、黒石らしい世界をつくりだした境形右衛門は、円覚寺の境家の墓地に眠っている。

(執筆者 七尾美彦)

 

黒石津軽家略系図

 

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