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小川 文代

小川 文代 写真

 

1938(昭和13)年2月、小川文代は東北帝国大学(現東北大学)より「蚯蚓(ミミズ)生よに至る迄の神経系統に関する研究」で理学博士の学位を受けた。女性としては東北帝大第1号であり県人としては平内町の※畑井新喜司(はたいしんきじ)博士や野辺地町の※野村七緑(のむらしちろく)博士に次ぐもので、生物学研究の分野での女性の学位号は小川文代が日本最初の人であった。


※畑井新喜司→旧黒石藩士の家に生まれ白ネズミ研究で大正14年帝国学士院賞受賞、東北大学教授、日本家政大学学長となる。浅虫に東北大附属臨海実験所をつくり、昭和天皇の生物研究指導者としても有名。


※野村七録→東北大学教授、弘前大学学長となる。陸奥湾のホタテの基礎研究で有名。


小川文代は結婚前は石原姓だった。1902(明治35)年4月2日、父石原弘・母たけの長女として生まれた。石原弘は富山県の聖地立山や黒部ダムのある中新川郡の医師の家の二男として生まれた。東京の済生学舎で医学を学び、軍医となって津軽へやって来、まもなく南津軽郡柏木町の豪農の娘後藤たけと結ばれた。文代が生まれた時、父弘は27歳、母たけは18歳だった。


この頃一家は黒石町の市ノ町42番地(現市役所の北側駐車場のあたり)に住んでいた。


文代は1909(明治42)年、黒石尋常(じんじょう)小学校に入学し、1915(大正4)年、第6学年を卒業しているが全学年トップであり、最終の6年生の時も唱歌だけ9点であとは修身から体操・手工・裁縫にいたる10教科が10点である。そして弘前市にある青森県立弘前高等女学校(現県立弘前中央高等学校)に入学し、1919(大正8)年同校を第16回生として卒業した。


石原医院は1918(大正7)年、弘前市山道町24番地へ移転した。しかし分院の形で市ノ町の医院は残し、のち養女花が経営する。この頃の石原家について三女の野村萬千代(のむらまちよ)(青山学院大学教授)は次のように語っている。

父は軍医として日露戦争に従軍したことによって、医者としての自分の人生は常に平和と、生命の大切さを人々に教えることだと心に深く刻みました。そのためにはまず自分自身の医術を高めなければと、毎年夏には休暇を作って東京の北里研究所に勉強に出かけました。その帰郷の時に私は美しい幅の広い外国製のリボンをおみやげに貰い、美しい箱に入れてよく友達に見せたものです。


あとで弟たちが生まれましたが、上は女だけ5人でした。まだ女に学問はいらないと思われていた時代でしたが、父は女性も人間として勉強しなければならないこと、また社会人として、さらに世界人として全人類と対等に交際していかなければならないという信念をもって全員を女学校に通わせました。

 

また女のたしなみとしてお稽古ごとも小さい時から学びました。小学校の帰りにはどの姉妹も毎日お琴の稽古に行かされました。稽古の順番待ちの時には先生のおばあ様から押絵を教えられました。年一度のお琴の演奏会はお寺の大広間でひらきますが、父方のおばあ様から贈られた友禅の被布(ひふ)(着物の上にはおる外出用コート)を着、大きなリボンを髪に飾って、姉妹そろって華やかに出かけました。

 


夏には蛍狩りに父について、書生を連れて夕方から出かけ、夜は蚊帳の上にその蛍かごをのせて安らかに眠ったものでした。また父は朝顔が好きで50から100位の鉢を作っていました。そして町の同好の仲間を呼んで楽しんでいました。この花の鑑賞にはもう一つの目的がありまして、夏休み中でも娘たちが早起きするためなのです。朝顔の花には半紙でおおいをかけておき、客が揃った頃に家族みんなを呼び、おおいを取り除くのです。パッと開く朝顔の花の美しさはまた、たとえようもなく、子供心にも美しいと思ったことをよく覚えております。大輪や狂い咲きなどいろいろ変ったものもあって、写真にとった美しいものが今も生家にあります。

 

また菊の会には芸者さんたちも家に来て、父の謡曲に私のうつ下手な小鼓にあわせて仕舞をいたしたり、妹が手踊りするなどのいろいろな余興があって賑やかなものでした。母はそのたびごとに食事の支度に汗を流していました。母はどちらかといいますと真面目一方でした。

 


黒石における父は優雅な生活でしたが、突然病気になりました。それが治ったのを機会に弘前市山道町に移り、個人医院から病院制度にしました。それでいろいろ忙しくなり、また講演を依頼されたりして黒石時代とは変りました。この頃の思い出で忘れられないのは、真向いに聖公会のイギリス人夫妻が子供二人と住んでおり、庭の芝刈りをした時に刈り草を父の飼っていた実験用の山羊や兎、モルモットの飼料としてもって来てくれたことです。子供たちは私たちの家に遊びに来て、子供同士よく遊び、ゆでたじゃがいもや、とうもろこし、枝豆など一緒に食べました。父もこれ幸いと市立弘前病院長と英会話を習っていました。

 

このような環境に育った文代には当時の女の生き方、求められる良妻賢母型は耐えられなかった。結婚はしてもしなくてもよい。主婦業だけが女の天職だとは思わない。暗い台所でぬかみそ臭く一生過ごすのはごめんだ。何でもいい、自分を生かす人生を送りたい。木綿の筒袖(つつそで)に紫色の袴(はかま)。黒い筋がわずかに県立第一高等女学校のプライドを示し、雨傘も黒一色という地味な、封建性の濃い田舎の女学生の小さな胸の中に大正デモクラシーの波濤(
はとう)が大きくうねっていた。この弘高女では文代が入学するわずか1年半前、青鞜社(せいとうしゃ)のメンバーというので若き神近市子(かみちかいちこ)が追放された学校である。青鞜社グループは平塚明子(ひらつかはるこ)(雷鳥(らいちょう))を中心とし、婦人の解放を叫び、新しい思想を紹介、実践して名高い。


幸い、父の石原弘はどういうわけか女子高等師範学校に憧れており、女高師への進学なら許可するといっていた。生物の好きな文代は理科の専門課程が他の女子専門学校になかったので奈良女高師にすすんだ。女高師は東京(現お茶の水女子大)と奈良(現奈良女子大)の2校しかなかったが、奈良女高師は各県から1~2名、推薦書類と面接で入学を許可していた。


女高師4ヵ年間も優秀な学生であった。4年生の時、文代は一生の幸せを予告する運命のかぎを拾った。夏休みに水泳練習と生物学研究のため、伊勢湾の鳥羽(とば)に1ヶ月の合宿を行った。ある日、海岸で何気なく拾ったあこや貝をあけてみたところ、立派な真珠の珠(たま)が出て来た。先生は文代が拾ったのだからとそのまま文代に与えた。文代は殻についたままの大きな真珠を弘前に持って来たが、母は文代に「あんたは一生運の良い、幸せな人になるよ。」といったが実際その通りになった。

 

1923(大正12)年、奈良女高師を卒業した文代は母校の青森県立弘前高等女学校に教諭として赴任、数学、理科、それに心理学を担当した。弘高女には1925(大正14)年まで勤務したが、この間に自分の学力の足りなさを痛感し、東京帝大の女子聴講生になって勉強を深めたいと思うようになった。このことを奈良女高師の植物学の恩師に相談したところ、東京帝大では実験をともなう理学部では聴講生はとらないから、いっそ女子の入学を許可している東北帝大を受験したらよいといわれた。


この頃、女性に対する学問の門戸は狭かった。この狭き門をくぐってすばらしい業績をあげた4人の弘高女卒業生が、母校の創立80周年の座談会で若き日の苦労をふりかえっている。小川の4年先輩で、医学博士となった吉沢ひでは、

 

「東洋女子医専を出てから東大入沢(いりさわ)内科に入ったんですが、当時は女医など認められない時代で、低い地位でした。助手、副手の下の介補(かいほ)というのを2年ぐらいやりました。戦後50を過ぎてから医学をやり直そうと思って、日本医大に入れてもらいました。二人の子供が大学を出て一人立ちしたところで、学位を取ろうと思い立ったわけです。午前中は医者をやり、午後からは学生、6年目でやっと博士号をとりました。


日本医大で学ぶちょっと前の1948(昭和23)年までは、東洋女子医専の先生をざっと30年やりました。開業は戦後、全国の女性歯科医の半分以上は、私の教え子です。論文テーマはモニリア菌と大腸菌の関係を扱った『モニリア症について』でしたが、顕微鏡を用いての細かい検査で忙しく暮らし、危く右目をつぶすところでした。」

 

小川文代も


「終戦まではいくら成績がよくても、官立(国立)では女性に助手のポストを与えなかった。」(中略)「東大に入りたいと思っても入れないし、旧制高校からの志願者が無い時だけ、二次募集の形でとったものです。女性は憤慨して浜口内閣に私立大学一つでもいいから、門戸を解放してくれって請願したものです。」


と女性差別を実感こめて語っている。


恩師から当時、高等教育機関として唯一、女性に門戸を開いていた東北帝大理学部を紹介された文代は悩んだ。それは受験対策のことである。


「生物学はともかくとして語学は旧制高校生とは格段の差がありますので、まず官立弘前高校のドイツ語の先生に手ほどきをして頂き、のちになって受験には外国語は英語でよいとのことでしたので、さらに高校の英語の先生に英作文を教わることに致しました。しかし何分にも教鞭の片手間なので自信がなく、落第したら東京の予備校にゆくつもりでした。幸い入学出来た時はうれしくて夜も眠れなかったことを覚えております。」


1925(大正14)年の東北帝大理学部生物学専攻の入学生は12名で、その中に小川文代ともう一人の女性がいた。同級生の植木忠夫によると、


「石原文代さんは、長ソデを風になびかせながら、編上げの靴をはいて廊下を歩く姿からミス金魚と呼ばれた。」、「大学の共学は、常に和やかで正しいエチケットが守られ、クラスコンパのおやつは、女子の“オサツ”との所望により、風呂敷をぶら下げて焼イモ屋の行列に角帽姿で並んでいる私を女房にみつけられて困ったこともありました。」
と語る。

 


石原文代はこの植木の中学時代からの友人である小川鼎三(おがわていぞう)と結ばれる。小川はその頃東北帝大医学部で解剖の助手をしていた。結婚式は1928(昭和3)年4月で卒業直後のこと、文代27歳だった。


文代は結婚について次のように語っている。


「女高師を卒業し、教職について24歳になっておりましたから、また大学に入ることに親類の者は反対しましたが、両親が賛成してくれました。かねて一生台所だけの生活はしたくないと考えておりましたので、結婚は度外視しておりました。たまたま植木さんの紹介で、勉強させてくれるというので、当時医学部の解剖(かいぼう)の助手をしていた小川と結婚することにいたしました。しかし、実際には家庭の雑事は存外多彩(ぞんがいたさい)で困難なものでした。けれども社会には多くの家庭持ちの女教師のあることを考えるといかにも意気地のないことと思い、両立するように努力いたしました。それでも子供のない間は比較的余裕がありましたが、子供が生まれてからは全くのお手あげで、大学院をやめようかと考えたほどでした。」

 

文代は結婚生活に入ったが、約束どおり5月には大学院に進学した。1931(昭和6)年6月長女陸奥子(むつこ)誕生。1933(昭和8)年3月二女真理子(まりこ)誕生。普通ならば愛の結晶ゆえ、めでたい祝福の限りなのだが、夫婦二人とも研究者であってみれば頑是(がんぜ)ない赤ん坊のことが原因とはいえ深刻な争いがおきる事態も生じた。結局弘前の石原家で陸奥子は成長するようになる。また文代は真理子誕生の翌月、大学院を退学した。しかし研究活動は大学院で継続した。これは恩師畑井新喜司博士の配慮によるものだった。


夫の小川鼎三はのち日本学士院会員、日本医史学会理事長となった人である。専門の数多くの著書のほか『医学大辞典』編集や鯨やヒマラヤの雪男の探検などでも有名である。


小川文代はミミズの研究にとりかかるいきさつを次のように話している。


「一般にミミズは大抵の人たちに嫌われる動物の一つで、実をいうと私も嫌いだったので女高師時代の動物実験にはミミズの解剖だけは願い下げにして頂いたほどでした。」


「それで入学する前は植物を専攻するつもりでおりましたが、クラスの女性の方々がみんな植物なので、動物を女も一人ぐらいやってもよいのではないかという程度の軽い気持ちだったのです。それでもやはり私は生理実験の生きたガマの頭を切れなくて男の方に頼みました。」


「ところが、主任教授の畑井先生が日本のミミズ研究のパイオニア(先駆者)でいらっしゃいました関係上、文献も揃っているせいか、当時の動物学教室ではミミズの研究をしている人が多いのには驚きました。それで私も波に乗りました。お互いに研究の交流も出来ますしね。3年次に畑井先生に卒業論文の研究課題で相談に行きましたら、ミミズの神経細胞の数を計算することを申しつかりました。それでしぶしぶこの研究にとりかかることに致しました。その頃、高等動物の中枢神経で細胞の数を数える研究が行われておりましたので方法など参考にいたしました。」


正直いってあまり興味なかったといいながら、結局小川文代は大学卒業後、大学院を含め10年間ミミズの研究に没頭したことになる。研究の視点はミミズのふ化から成熟までの神経細胞と神経繊維がどのように増加していくかということだった。


この研究はまず、卵の採集から始めなければならない。毎年春に2~3千個集めるので、効率的に集めるにはミミズを飼育しておいた場所の土をふるいにかけて水洗いする。また、時には用務員に2~3千個集めてもらい1個2銭で買った。


次にふ化したものを順次飼育鉢に入れ、隔週ごとに30匹ずつ体重、体長、直径、体節数、器官の発達状態を調べた後、神経系の主な部分を固定して標本を作った。この作業量はぼう大で、記録するのにさすが頑張り屋だった文代も神経を消耗してしまった。

 

この時、下田の臨界実験所にいた後輩がウンナ氏のメチレンブルー(塩化亜鉛を試薬として青い色を出す色素)を使用すると、従来一般的に行われていた銀で染めるより手軽ではっきり見えることを教えてくれた。この方法で救われた文代はさらに改良して永久プレパラート(顕微鏡観察用の標本)を作った。それは現在50年たっても色があせないで見られる。この染色法の優れている点は生きたままの材料を染め、その日のうちに標本に出来ることである。銀で染める方法では材料が死に、時間がかかり、白黒でしか出ない。当時のことを後年、次のように語っている。


「これで今まで見られなかった神経系の状態が詳細に見え、全く寝食(しんしょく)を忘れて神経の未知の世界を追求しました。残念なのは今のように写真技術が進んでいなかったので、写真に撮り難く、図に書くより仕方ありませんでした。そして1938(昭和13)年に12年間大学院で研究したミミズの成長にともなう神経系の変化をまとめて提出したのが学位論文となりました。」


文代はこの神経細胞の数量的観察で、ふ化の後、消化器の神経細胞が増えないこと、生殖器のそれは4週目までに2倍に増え、それ以後は余り増えないが神経細胞は他の器官より多いこと、そしてもっとも著しく増加するのは彼女が特別神経細胞と仮称したミミズの脳にある細胞群であることを発見した。この仮称の細胞群については世界でも気づいた学者がいなかった。


小川文代の研究成果は現在も世界中の動物学の学術書に引用されている。


1938(昭和13)年1月、夫の小川鼎三が合衆国で研究を深めることになった時、文代も渡米し、ノースウェスタン、エール両大学で研究生活を続けた。


エール大学の大学院にいた時、エビの神経を研究していた学生に得意のウンナのメチレンブルー染色法を教えてくれと頼まれたエピソードもある。しかし8月、長男出産のため帰国した。


東京へ移住してからは徳川生物研究所で研究活動を続け、1944(昭和19)年『みみずの観察』(創元社)を出版した。


戦後は共立女子大学家政学部教授となり、国際大学婦人協会の副支部長や日本家政学会会長となって世界大会などにも出席してわが国の女性の地位改善のために尽くした。文代は戦後の日本女性について次のように語る。


「男の人は、戦後に婦人が参政権を得てから、どのように日本の政治が変ったと思っているんでしょうか。私は、婦人参政権をたいした努力なしに得たため、かなり不都合なことが多いと思うんです。まあ、婦人を念頭において選挙が行われるようになったこと、婦人の政治への関心が高まったということはあるでしょうけど。」


「女だけの学校しかないと、紫式部のような才能ある女性を、制度のため伸ばす機会を奪って気の毒ですよ。」


(青森県の女性に言いたいことは)「米、りんごなど産物は多いけど、金の使い方に無駄が多いのですネ。私は漬物はほめられるんですョ。14、5歳頃が家庭における技術教育のヤマです。女は家の暮らしをもっと合理的にしなきゃ。」

(執筆者 稲葉克夫)

(付記)小川文代さんは、平成5年、91歳で天寿を全うされました。(合掌)