ナビゲーションスキップメニュー

小田桐 きゑ

小田桐 きゑ 写真

母との別れ

母と娘を乗せた人力車のかじ棒を、車夫が持ち上げてまさに走り出そうとした時、家から急いで出てきた老人が、小田桐家の一人娘は渡せないと、母の膝に抱かれていた娘を奪い取った。母は泣く泣く実家へ帰っていった。娘は3歳の小田桐きゑであり、老人は祖父、二代目才太郎であった。


明治の民法では、家族を統率する戸主を定めてあり、家族は結婚についても、戸主の賛成がなければできなかった。遺産相続は、男子を女子よりも優先するようになっていた。女子の地位は低くおさえられ、妻は法律の上では無能力者とされてきた。男女平等がいわれるようになったのは、1945(昭和20)年、第二次世界大戦が終わった後につくられた新しい民法からである。


きゑの母の頃には、個人よりも家を中心にする考えが強く、家風にあわないという理由や、「子なきは去る」といって家を継ぐ子供が生まれない時に、嫁ぎ先から実家へ帰される例が多かった。きゑの母さなは、高杉村(弘前市)八木橋家から1890(明治23)年に嫁いできて、1893(明治26)年に実家へ帰った。小姑にいびられたことによるという。


この母との別れは、映画やテレビにも出てくるような劇的な場面であり、この後、二度と母子が会うことはなかった。物心のついた8歳の頃には、「母は自分を捨てて行った人」


と思うようになった。後に、この母が再婚し、子供ができてから、交際を望んだが、きゑは決して会おうとはしなかった。

小田桐家の人びと

きゑの生家は、屋号を「小田佐(おださ)」という商家であった。もともと境松(黒石市)で農業を営んでおり、農閑期になると村々をまわって桶を直して歩く職人であった。父の由太郎は、後に襲名して三代目才太郎を名乗った。家業の農業、桶屋のほか、米の売買によって財を貯えると、上町角(現在の三上呉服店のところ)に移った。店に西日が当たっても変質しない品物で商売することを考え、大工道具などの金物を扱った。また、営林署から払い下げた材木を製材する仕事まで手を広げた。丸太を加工する木挽小屋(こびきごや)は家の筋向い(現在のモリトミビルのところ)にあったが、後に家の北側に移して「黒石製材所」とした。勤勉、篤実(とくじつ)で、「小田佐のおじさ」と呼ばれ、一代で財を築いた商人であった。


二度目の母きよは、北海道の小田桐家から1894(明治27)年に嫁いできて、翌年、実家へ帰った。

 

三度目の母いそは、きゑが5歳の時に嫁いできた。この継母は、しっかりしたきつい人であったというが、子供が生まれなかった。


いそは、親戚から男の子(鈴木寅之助)をもらい、「チャコ(二男)」とよんで溺愛した。継母への反抗からきゑは家出をするという行動にでたが、途中であった町の人から「小田桐の家をどうするつもりだ」と詰問され、やむなく家へもどった。何よりも家が大事だという考えが、きゑの行動にブレーキをかけていった。それは、後に述べる婿養子を迎えることにもあらわれている。鈴木は、後に市ノ町に小間物屋(現在の高谷商店のところ)を開き、2階は卓球場として開放し、黒石を卓球王国にする一翼を担った。長男一(はじめ)は、慶応大学へ進み、全日本学生卓球選手権のシングルスとダブルスで優勝している。長女長子(ちようこ)は、後にきゑがフィリピンへ息子の慰霊の旅にでる時同行するようになる。


きゑは、1891(明治24)年3月24日生まれで、戸籍には父を才太郎、母を継母のいそで届出ている。きゑは、生みの母に似て背が高く美人に成長した。このような金持ちの黒石美人を誰もがほっといておくわけがない。「小田佐のアネサ(娘)」の顔を見たさに店の前を行ったり来たりする若者たちや、結婚後でも人妻と知らずプロポーズにきた陸軍の若い少尉もいて、町の噂の種になった。


写真は、1935(昭和10)年頃、弘前市に滞在していた昭和天皇の弟秩父宮にお茶を差し上げた時のものであるが、その美しさが理解できると思う。

 


17歳の時、継母の親戚で製材所の一番番頭であった成田耕造と結婚した。この人は商才にたけ、小田桐家の柱となったが、きゑとしては意にそわない結婚であった。二人の男の子が生まれたが、いずれも数ヵ月で死亡した。この夫が病死すると、二度目の婿養子に津軽藩家老の家柄である一戸功を迎えた。


体格がよく美男で教養もあり立派な男性であったので、きゑは夫婦らしい愛情と尊敬をもつようになった。


女の子が生まれたが、数ヵ月で死亡した。その後、夫が突然死亡するが、この時にきゑが妊娠していたので、親戚が生まれてくる子と家のためにと説得し、三度目の婿養子に功の実兄操を迎えた。こうして生まれてきたのが三男清で、二度目の婿養子にそっくりであったので、きゑは愛情のすべてをこの子にそそいでいった。

 

ここには、小田桐家を中心にした考え方があり、その中で継母ときゑを軸にした愛と憎しみの生活が展開していったのである。

茶室「明喜庵めいきあん」をつくるまで

小田桐きゑは、表千家の茶道を弘前市元寺町小路の傍島静(そばじましずか)、池ノ坊の生花を弘前市西茂森町の天津院(てんしんいん)住職桐原光三(こうざん)に習った。後に、茶道は表千家吉倉宗匠(よしくらそうしょう)について習い、家元即中斎宗(そくちゅうさい)匠より「乱飾(みだれかざ)り」の相伝(そうでん)をうけた。乱飾りは、地方で習う人にとっては家元より許される最高の許可証である。お茶とお花を町の人に表2階、後には店を改造した1階で教えた。吉倉宗匠は裏2階に4、5日滞在しながら、その門弟に教えた。娘時代は「小田佐のアネサ」、母となる頃からは「小田佐のかあさん」と呼ばれていたが、弟子からは「小田桐先生」といわれるようになった。現在、黒石で表千家のお茶と池ノ坊の花をたしなむ人の多くは、きゑに教えを受けた人たちである。

 

黒石実科高等女学校へも、お茶とお花を教えに行っていた。高等女学校は、現在の市ノ町須藤善ガソリンスタンドのところにあり、1943(昭和18)年に黒石高等女学校と名前を変え、戦後県立となり、1948(昭和23)年、男女共学の黒石高等学校となった。


当時はまだ学校で酒を飲むことが禁止されていなかったので、礼法室がしばしば会議の後の酒席に利用された。


お茶の稽古を始める時にまだ酒のにおいが残っているし、風炉(ふろ)は火鉢がわりに使われ、タバコのすいがらがつき立てられている。「礼儀は文明の尺度です。生徒に礼儀作法を身につけさせるため、茶道を学ばせてほしい」と考えていたから、こんな酒とタバコのにおいのするところで稽古するのは、我慢できなかった。とうとうこの不満を校長明本常丸(あけもとつねまる)に訴えた。明本校長は、乙徳兵衛町の円覚寺住職で木造高校の校長であったのを、黒石の人たちが、新しい黒石高校をつくるために来てもらった人であった。校長のスケールの大きい話は、いつも聞く人をその魅力に引きずりこんでしまうものであった。きゑは、かねてから茶室を建てたいと思っていた。しかしわが家に茶室を建てても、自分と弟子くらいより利用しない。それよりも、新しい高校につくれば多くの人たちが利用できると考え、茶室を寄付することを申し出た。明本校長も、全国の高校で本格的な茶室をもっているところはないので、これができれば日本一の高校ができると喜んだ。


早速、明本校長、きゑが境松の宮大工清藤竹次郎と共に、京都から北陸の茶室を訪ね歩いた。そして、金沢市(石川県)に住んでいた吉倉宗匠の教えもあり、雪国に合った茶室をつくることになった。清藤大工は茶室をたてるために茶を習い、1952(昭和27)年、小体育館に一度組立てて確かめた後、高校の中庭に26.46平方メートル(約8坪)の粋をこらした茶室を完成させた。

 

茶室の名前は、表千家即中斎宗匠より「明喜庵」と名付けられ、その扁額(へんがく)は現在も茶室の妻にうちつけられてある。この名前は、明本校長の「明」と、きゑの茶名宗喜(そうき)の「喜」によったものである。建築費は100万円といわれた。当時は100平方メートル(約30坪)の家が50万円で建てられているので、その経費の大きさが分かると思う。現在、この茶室は、黒石高校(西ヶ丘)が新築するにあたり、校地内の植物園に移され、ひっそりと静まりかえっている。


茶室の建築にみられるように、きゑは自分自身のために蓄財(ちくざい)を使うのでなく、他人のために使った。特に若い人たちを育成することに情熱をかたむけていった。

「小田桐清奨学金」をつくるまで

小田桐きゑは、生まれた子供を次々と3人まで失なった。ようやく1923(大正12)年に生まれた三男清が育った。清は母の愛情を一身にうけてのびのびと成長した。弘前中学校(現在の弘前高等学校)に通学する頃には、いっしょに暮らしたことのある鈴木家の子供たちを集め、先生のあだ名の由来をおもしろおかしく教えたり、英語の発音を無理にいわせたりして遊んだ。その後の絵がうまく、友人のかばんのふたに漫画をよくかいてみせた。天真爛漫で物に動ぜず、中学校は5年で卒業するのに、7年かかっても悠々としていた。ニックネームは「丸太」であった。体格がよく、家業が製材所であったためにつけられたらしい。スキー部のキャプテンであった。


母は清を医者にしたいと考えていた。東京大学へ入学するのが夢であった。この思いが後に奨学金の設立につながっていくことになる。


「母さん、勉強しろ、勉強しろといったって、できないものどうする。」


と、清は答えていた。母の願いのようにならなかったが、清は京都の同志社大学へ入った。清は、1944(昭和19)年、軍隊で書いた日記に次のように述べている。


「自分ハ将来中学ノ教師トナルヲ目的トシテヰ タ。老イタル父母ノ下デ、田舎デ好キナ画ト小説デモ書イテ暮スコトヲ期シテ、同志社ノ英文科デ英語ヲ学ンダ。」


しかし、歴史の大きな波は、この親子の幸せをもおし流していった。きゑは日曜日に面会するため、移動する軍隊を追って全国をまわった。なかなか手に入らなくなった砂糖を求め、息子の好きな「おはぎ」や「だんご」を作って会いに行った。軍隊からの手紙には、「私は何も寂しくない。私にはだれにもまさる母がいる。」と母への想いが書きつづってあった。また、この年の5月18日の日記には、


「本日、母面会ニ到ル。遠路青森ヨリ到ルヲ想ハ(わ)バ、親ノ有難サニ涙コボルノミ。シバシ云フ(いう)ベキ言葉ナシ。地方ニ在リシ頃、何一ツ孝ト名付ク事ナク、不孝ノ連続ナリ。カカル不肖ノ子ト雖(いえど)も、常ニ心配シ下サル恩ニ何ヲモテ報(むく)エン……五十ノ坂ヲ越シタル母ニ今尚(なお)心配ヲカクル不甲斐(ふがい)ナサ、今後、益々自己修養ニ努ムベシ。」


と記されてある。広島駅で列車が出る時に、

 

 

「今度はどこへ行くの。」
「わからない。だけど母さん、この軍服を見てごらん。南方だよきっと。」


と交わした会話が、母と子の最後の別れになってしまった。


戦争が終わって復員して帰ってくる人もいたが、1946(昭和21)年、「オダギリキヨシセンシ」の公報が町役場に入った。きゑは遺骨が入ったとされる白木(しらき)の箱を受け取り、仏壇の方へ向きを変えようとした時、箱の蓋がはずれた。箱の中には息子清の名前と違った名前の小さな紙が入っていた。これがきゑにとっては救いとなり、
「清は絶対死んでいない。生きて必ず帰ってくる。」
という信念になった。息子の生きて帰る日を心の支えに家業をきりもりした。


しかし、戦死の公報から17年が過ぎると、生きて帰ってくるという願いも薄らぎ、乙徳兵衛町の保福寺にある小田桐家の墓地に清の墓をたてた。1966(昭和41)年、76歳の時、清の戦死したフィリピン・ルソン島のバギオへ慰霊の旅へ出た。


幼い時に小田桐家で育った門脇長子(旧姓鈴木)が、『ミセス』<1967(昭和42)年5月号>にこの旅に付添った様子を紹介している。戦争などどこにもなかったような南国の青い海の見えるところに、持参した黒石米、井戸水を供えて祈った。


「清が海におちた夢をはっきり見たが、確か、この海のような気がする。」


と、波打ち際で涙ながらにくり返しくり返し息子の名前を呼んだ。この旅でようやく息子への気持ちが整理できたようである。それには20年という長い時間を必要とした。

 


きゑは、鳴海病院(弘前市)院長で清の友人の父でもある鳴海康仲(なるみやすなか)に相談相手になってもらっていたが、鳴海が苦学生に奨学金を支給しているのを聞き、自分も育英事業を行うことを決心した。一人息子が大学での学問を途中でやめたという想いと、息子を東京大学へ入学させたかったという想いを重ねた。

 

黒石高校から東京大学に入学した人に支給するというものである。


「息子に代わって、世の中に尽くす人を育てるのが、清に対する一番の供養だと思うのです。お手伝いさんを雇っても月に1万円かかる。自分の身の回りを自分でやれば、その分だけ浮くことになる。それを奨学金に使ってもらうことにしているのです。」


この基金は、息子のために積み立てていた425万7千円をあて、その利息と自分の生活費の一部から1万円を支給するものであった。


この奨学生の第1号となったのは、1962(昭和37)年、東京大学へ合格した小田桐洋一であった。ところが東京大学に合格する生徒が続かないため、国立大学生2人に対象を広げた。1967(昭和42)年、新潟大学へ入った高谷厚子は、月5千円の支給を受けた。部屋を借りる時、畳一丁が千円であり、牛乳1本が20円という当時の物価からみても、大学生活を支えた奨学金の大きな力が理解できる。黒石へ帰った時に挨拶に伺うが、もうこの頃の小田桐家は大戸(おおど)をおろしたままになっていた。くぐり戸を開けると、通り庭に、紺地に○二「丸に二つ引き」の小田桐家の家紋を白く染め抜いた大きなのれんが見えて、シーンと静まり返っている。若い人たちが訪問すると、戦死した息子のイメージと重なるのか、大変喜んだ。いつもバナナを小さく切った上から砂糖と牛乳をかけた果物で接待してくれた。これは、ひょっとすると息子の好きな食物であったのかもしれない。


1990(平成3)年までに、この奨学金の恩恵を受けた人が37名あり、基金も1000万円を超える額になった。奨学金は返還の義務もなく、大学を卒業した時に小田桐清の墓に報告すればよいものであった。

 

創建当時の明喜庵


奨学生は、清のニックネームから「丸太会」を結成し、毎年8月14日に墓参してその恩に報いている。


小田桐きゑは、幼くして母に別れ、夫や幼な子に死別し、最愛の息子を戦争で失った。それは愛情をそそぐ相手を次々に失っていく悲しみの人生であった。しかし、それは親子という肉親の愛情から、郷土を担う若人を育てる社会愛へと転化させていった人生でもあった。


晩年には、親戚から養子を得て後のことを託し、1974(昭和49)年9月13日、84歳で世を去った。


その後、小田佐の家は整理されて今はない。しかし、茶室「明喜庵」と、今なお続いている「小田桐清奨学金」に、小田桐きゑの心が生きつづけている。

(執筆者 篠村正雄)