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津軽 信英

のぶふさ

 

黒石藩祖といわれている黒石の初代領主津軽十郎左衛門信英(じゅうろうざえもんのぶふさ)は、後に名君と呼ばれた弘前4代藩主津軽信政(のぶまさ)を教育し、その後見役として藩政を指導し、黒石に陣屋を構え、5000石を領して黒石藩の基礎を作った。

 

信英は、1620(元和(げんな)6)年10月6日、弘前2代藩主津軽信枚(のぶひら)の二男として、江戸神田の藩邸(はんてい)に生まれた。生母は、藤という人であったが、育ての親は徳川家康の養女で、信枚の正室の満天姫(まてひめ)である。幼名を万吉といったが長じては信逸(のぶとき)、信秀と称し、黒石に領地を持ってからは十郎左衛門信英と名乗った。

 

信英には兄弟がたくさんあって、兄の平蔵信義(へいぞうのぶよし)は、弘前の3代藩主となった。

 

1631(寛永8)年、12歳の時、藩主となった兄信義ともども将軍家光に初めて紹介され、1642(寛永19)年、23歳で幕府小姓組(こしょうぐみ)に召し出され幕府旗本の一員となった。兄の信義は、これを祝って1000石の※合力米(ごうりょくまい)を与えた。
将軍は、戦闘、護衛、警備そのほか多くの仕事を家臣に分担させるため組(番とも言った)を作ってその任にあたらせていた。

※合力米→ここでは、特別に与えられた領地のこと。

 

小姓組、書院番(しょいんばん)がそれである。組は本来徳川家の家臣で構成されるのであるが何らかの縁によって外様大名の者でも入ることがある。信英の場合は母が満天姫だから徳川氏と縁続きにもなる。信英の番入りは津軽家と将軍家とのつながりをさらに深くすることであり、津軽家の安泰につながることであった。

 

信英が信義から貰った1000石の領地(知行地 )は「※明暦の検地帳 」によると黒石村、山形村、平内村にあった。

 

※明暦の検地帳→1656(明暦2)年2年6月から7月にかけて黒石領で行った土地測量台帳。検地帳には地名や土地の等級、面積、生産高、作人、社寺地、荒廃地など、こと細かに記載されており、年貢をかける台帳となる。

 

1645(正保2)年、信英は幕府から蔵米(米で支給される給料)300俵を支給された。その後、小姓組から江戸城西ノ丸書院番に所属したり、また駿府(すんぷ)(現静岡市)に出向いたりして幕府旗本の任務をつとめた。

 

信英はこの公務のかたわら文武の修行に励んだ。学問は山鹿素行(やまがそこう)に深く師事した。当時、武士の学問といえば兵学と儒学である。兵学は軍学ともいい、戦略、戦術を研究する学問で、山鹿素行は山鹿流兵学をあみ出した江戸時代有数の兵学者だった。儒学は中国の孔子、孟子などの教えを研究する学問で「礼」を中心とする封建時代ぴったりの道徳の教えであった。

 

 

しかし、山鹿素行の儒学は古学派といって礼よりも武士道を説く日本的なものだった。信英は、兵学、儒学とも当時江戸最高の学者について学んだのである。

 

そればかりでなく、剣は一刀流の梶新右衛門(かじしんえもん)、槍は山本加兵衛、弓と馬術は吉田八条流をきわめ、文学は京の清水執行(しつぎょう)を師とした。甥の弘前4代藩主信政やその弟の政朝(まさとも)らを山鹿素行の門弟にしたのも信英だった。

 

素行が病に臥すと、深く師事していた信政は枕元で看護した。素行の娘むこ2人は津軽藩の家老となった。津軽武士の魂には、素行の説く武士道が形式的な儒教を超えて流れていた。

 

江戸最高の師のもとで修行に励む若き信英の姿は、当時の武士の理想の姿であった。それだけに、国元では信英を藩主にたてて、3代藩主信義を隠居させようという企てが重臣たちの中から起こったのももっともなことであった。1647(正保4)年の正保御家騒動(しょうほうのおいえそうどう)である。

 

3代藩主の信義は十三湊港口(とさみなとみなとぐち)切替工事、尾太(おっぷ)鉱山の開鉱、新田開発など治世の業績に見るべきものがあったが、激情家で酒乱でもあり、「じょっぱり殿様」の異名をもっていた。気に入らない家臣を手討ちにし、残忍な藩主として家臣たちの恐怖の的になっていた。

 

「殿の乱行が御公儀(幕府)に知れたら、とりつぶしになるのでは……」という不安が、重臣や信義の弟たちの間に出て来た。
「あのお方が殿様であったらなあ」という願望は藩内に共通したものとなった。

 

しかし、この信義排斥の企ては裏切りによって発覚し、流血の処分となった。この時、信義の実弟たちも切腹や流罪の処分を受けたが、擁立された信英と次弟の百助信隆(ももすけのぶたか)には何の沙汰( 処分) もなかった。信英は幕府旗本なので、うかつに手を出せなかったということであろうし、百助は自分から騒動を起こしたのでなく、むしろ企ての情報を信義にもたらした功があったからであろう。

 

 

百助は※沈勇の士で、お家第一と考える人で、後に兄の信英に5000石を分知する時、その領地を黒石、平内、それに上野国大館(こうずけのくにおおたち)(現群馬県)としたのは百助だった。

※沈勇→沈着冷静で勇気があること。

 

信義は信英の一つ年上の兄であるが、何かと文武に優れた弟と比較されるものだから、劣等感があって酒ぐせが悪くなったといわれる。しかし、信義は信英を頼りにもしていた。信英に1000石を与えたことも、後継の平蔵(信政)の教育を信英にゆだねたことも、御家騒動のことを不問にしたのも、弟に対する信頼のあらわれであった。

 

この“じょっぱり殿様”も、1655(明暦元)年11月、江戸神田の上屋敷で急病に倒れた。享年37歳。

 

翌1656(明暦2)年2月、幕府は津軽平蔵信政を、4代目藩主として信義の後を継ぐことを条件付きで認めた。

 

その条件とは、信政がまだ11歳なので、叔父の信英を後見人とすること、信英には弘前藩4万7000石のうち、5000石を※分知するということであった。信英は、幕府から与えられていた300俵の蔵米を返上し、兄信義から支給されていた1000石の合力米の知行地も新藩主信政に返納した。

 

4月初旬、幼君信政を江戸に残し、信英は津軽に出発した。10年以上も留守にした津軽で新しい人生が始まるのである。時に36歳であった。

 

4月26日、弘前城に到着し、ただちに政務を開始した。まず解決しなければならない大問題は5000石の領地問題だった。このことについては次のような伝承がある。

 

信英は初め、青森を含む外ヶ浜(陸奥湾沿岸)一帯を希望した。ところが津軽百助ら家老は同意せず、他の土地を望まれよと回答した。それで次に賀田(よした)(現岩木町、旧大浦城所在地で津軽氏興隆の地)を望んだところ、これにも難色がしめされ、そしてとうとう黒石、平内に上州領を加えた地域が決定したという。

※分知→分け与えること。

 

しかし「黒石市史」<1987(昭和62)年黒石市発行>はこの伝承を伝説として否定している。「市史」は領地について百助信隆ら本家重臣に選定を任せたという。当時の黒石村とは、北は馬場尻村、目内沢田村、西は堂野前村、高田村(ともに現田舎館村)、東は石名坂村に接する広い地域で上黒石村、下黒石村、黒石御派(みはだち)町の3区域に分かれていた。これに浅瀬石川流域の温湯村、不動館村、板留村などの山形村領分を入れて2000石、他に外ヶ浜の平内領分の1000石、それに上州(現群馬県)の大館村ら6カ村の2000石で計5000石だった。領地が正式に決定したのは8月初旬であった。

 

もちろん5000石といっても、それは幕府が定めた公定生産高(表高という)であり、現実の生産高(実高という)は1万石を超えていた。黒石、山形領は当時18カ村で、実高は5990石であった。村数はこの後どんどん増えていく。平内領も当時18カ村で実高は2900石であった。小湊村に代官所を置いて統治した。

 

上州の2000石というのは現在の群馬県新田郡、佐波郡にある新田町(にったまち)、尾島町(おじままち)、境町(さかいまち)の範囲で、当時は6カ村であったがのち8カ村になる。中心は大館(おおたち)でそこに代官がいた。

 

黒石が一万石の藩になるのは1809(文化6)年であるが、信英分知の時から、その資格を備えていた。領地の具体的な内容が決まって信英は陣屋の場所を選んだり、町割をしたりする業務に入った。信英が黒石村へやって来た頃、黒石村にはすでに10町の町並ができていた。このことは黒石市の文化財に指定されている明暦2年の検地帳で証明できる。

 

明暦の検地帳には、寺町・浦町・横町派(よこまちはだち)・上町・本町(もとまち)(元町のこと)・古町(こまち)(百姓町のことか)・おいた町(大板町のこと)・徳兵衛町派(とくべえまちはだち)・新八町(どこにあたるか不明)・派町(はだちまち)(中町・浜町のことか)などの町名が見られる。

 

"派"のつく町は、1656(明暦2)年頃にできた新しい町であろうが、それ以外の町はだいぶ前からあった町である。

 

さらに、黒石村には、信英が来た時、寺院が5つもあった。来迎寺(らいごうじ)・妙経寺(みょうきょうじ)・感随時(かんずいじ)・保福寺(ほうふくじ)・愛宕地蔵院(あたごじぞういん)などである。

 

黒石村といっても、町のような状態になっていたわけで、そこに十郎左衛門信英がやって来た。

 

信英の行った町割(町づくり)というのは、すでにあった町並に、侍町(現市ノ町)や職人町(現大工町や鍛治町)を継ぎ足したものであった。

 

さて、黒石陣屋は、現在の内町一帯に築かれたわけだが、陣屋構えといって、2階のない平屋造りであった。

 

内町一帯を陣屋に定めたのは、信英の考えであったと思うが、町づくりとの関係をよく考慮している。

 

 

陣屋築造の時点で、黒石村の西北側の方にはすでに町並ができていたわけだから、これから開けていく東側との接点を陣屋に選んだわけである。賢明な場所の選定であった。

 

1656(明暦2)年の4月下旬から1657(明暦3)年にかけて信英は忙しい日々を過した。

 

自分の領地である黒石・山形・平内の検分、黒石陣屋造営と町づくりの指図、そして家臣団の編成の仕事であった。

 

1656(明暦2)年9月17日、信英が知行状を与えた家臣は、黒石の部30人、平内の部50人であった。

 

黒石の30人の家臣であるが、その多くは黒石村・野木和(のぎわ)村・株梗木(ぐみのき)村・飛内村・山形村在住の者であり、名字をもたない者が11人もいる。おそらく、この時、士分(武士の身分)に取り立てられた者であろう。

 

30人の知行高は、9石が一人で、他はすべて15石である。知行高15石というのは、15石の生産高の知行地を与えられるということで、作人に耕作させている場合は、その6割くらいしか自分の収入にならないので、自分で「手作り」をしている武士もいた。

 

平内の部50人の名前を見てみると、名字を持っているのはわずか5人で、ほとんどが、この時に士分に取り立てられたことがわかる。

 

平内の家臣達の知行高も、大半が黒石と同じ15石である。

 

黒石でも平内でも、この頃の家臣は、少ない知行高でつつましく暮らしていた。

 

1656(明暦2)年10月、信英は江戸に出府し、4代将軍家綱(いえつな)に拝謁して熊の皮や太刀を献上し、ふたたび国元に帰ってきた。

 

幕府旗本の役目、弘前藩の後見人の役目、黒石領主の役目という3つの役目を果たさなくてはならないので、相当忙しい。

 

上州の飛び地にも立ち寄ったりしたであろうが、大館には弘前藩の足立源左衛門が代官として勤務していたので、引き続き本家に管理をお願いしたようである。

 

1656(明暦2)年12月、3代藩主信義のために建てた弘前新寺町の報恩寺の本堂が落成した。翌年報恩寺には寺領として300石を与え、米100俵を寄付し、兄の菩提(ぼだい)をとむらった。

 

1657(明暦3)年4月、信英は津軽家の家訓を弘前藩の頭役(かしらやく)の人々に配布した。

 

1661(寛文元)年6月、信英は弘前藩の日記である藩庁日記をつけさせた。弘前市の宝ともいうべきこの藩庁日記は、信英の命によって始まり、幕末まで毎日欠かさず書き続けられた。

 

同年6月、信英は、家臣・領民に対して諸法度(しょはっと)を制定した。

 

その内容は、親孝行の子どもの表彰、学問・武芸の奨励、訴訟の方法、質素倹約、五人組制による自治などで、武力によって国を治めることよりも、道徳的な内容が多い文治主義的な信英の政治姿勢をよくあらわしている。

 

この年の5月、4代藩主津軽越中守信政は、初めて国元に下った。

 

甥の信政ももう16歳になっていたので、後見人の役目も終わりつつあった。

 

信政が江戸を発つ時、山鹿素行を1万石で津軽に迎えようとして果たせなかったが、この発案は信英から出たものといわれている。

 

1662(寛文2)年、江戸から帰国した信英は、久しぶりに平内地方を巡見した。その直後黒石で風邪にかかり、弘前城に移って治療したが、ふたたび立ち上がることかなわず、9月22日弘前城内で43歳の生涯を閉じた。

 

信英の葬儀は、本人の遺言によって、黒石陣屋で儒教を以て行われ、僧は入れなかった。

 

信英の遺骸は、黒石陣屋の東南の隅に※廟(びょう)を建立して埋葬された。現在の黒石神社である。

 

黒石神社は、初代信英の墓所なので、昔は御廟(ごびょう)とよんでいた。

※廟→祖先の霊を祭る所。霊屋。

 

信英の長男信敏(のぶとし)は家督を相続し、幕府旗本の役目も継承したが、弟の信純(のぶずみ)に5000石のうち、北黒石4カ村500石と上州領の中から500石を分知した。信敏を黒石本家、信純を黒石分家といい、弘前の本家は宗家といった。このうち黒石分家は2代信俗(のぶよ)に子がなかったので、1689(元禄2)年9月断絶し、北黒石の下目内沢、飛内、小屋敷、馬場尻4カ村と上州領女塚村と赤堀村の所領は幕府に没収された。

 

いわゆる天領となった。もっとも北黒石の管理は弘前藩が行い、年貢は貨幣で幕府の奥州代官に納めた。田山堰の田山藤左衛門はこの時に活躍した。

 

1698(元禄11)年、黒石本家は上州領の残り1500石を幕府に献上して北黒石4カ村を黒石領に戻した。この時、幕府は奥州伊達郡秋山村(現福島県川俣町秋山)371石も黒石領とした。それは北黒石4カ村の実高が1128石3斗5升だったので、幕府領だった秋山村を上秋山村371石と下秋山村779石に分村し、上秋山村を黒石領とし上州領1500石との等価交換としたのである。

 

信敏の長子政*(まさとら)(まさたけともいう)は3代領主となって77歳の長寿を保った。妻あぐりは忠臣蔵の吉良上野介(きらこうずけのすけ)の娘。もっともあぐりは元禄元年8月に病死しているので47士討入と父の非業の死は知らない。
また政*のことで特筆すべきは50歳頃に書いたといわれる釣魚秘伝のサブタイトルをもつ「何羨録(かせんろく)」の著者だということである。

*→凹の下が儿


「何羨録」は、わが国最古の釣りの本で江戸近海の釣り場、天候、竿、鉤(はり)、錘(おもり)、餌(え)、口伝(くでん)などが具代的、詳細に書かれている。文化人だった信英の孫らしい風流な殿様といえよう。

(執筆者 七尾美彦)