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鳴海 要吉

鳴海 要吉 写真

雨雀と要吉

いのちあって
迷わぬものはどこにある
あれあのとおり
雲さえまよう



黒森山浄仙寺後ろの文学の森にある要吉自筆の歌碑である。

鳴海要吉、黒石という北辺の地に生まれ、口語の短歌をはじめて考えて創作し、31文字を3行とか4行に書くことを試みたり、エスペラント(万国共通語)に凝ったり、ローマ字詩歌集「土にかへれ」を出版するなど、その当時としてはなかなか勇気のいる仕事をした人である。しかも失恋、不遇、貧困と闘いながら自分の求めるものに立ち向かい、その意志を死ぬまで貫き通した。そのため余り報われることもなく、一生涯を貧しく薄幸に送ったのである。


要吉が世を去って30年、黒石市出身のこの口語歌人の研究をする人も増え、評価はますます高くなるばかりである。


黒石市史にはこう書いてある。「黒石文芸史上もっとも早く近代的自覚をもって文学に対した文学者としてあげることのできるのは、秋田雨雀、鳴海要吉、丹羽洋岳の3名である。」


では鳴海要吉の生誕、生い立ち、人物、そして文芸活動のさまざまを追ってみよう。


1883(明治16)年黒石市横町に生まれた要吉は、黒石近在でひろく知られた商家「鳴三」の5男である。父は俳句などを作った趣味人、母は信仰心の厚い内気な女性だった。

 

要吉が小学校2年生の時だった。事情があって家が横町から前町に移った。前町には近所に秋田雨雀の家があり、偶然にも2人は同年生まれだった。
雨雀、後に劇作家、詩人としても有名なこの人物は、要吉の文芸活動にいろいろ影響をあたえ、雨雀も要吉からはずい分学ぶことが多く、2人は終生の友人でありまたライバルでもあった。

 

要吉の父鉄太郎は、当時としては自由な思想の持主で、1877(明治10)年にキリスト教に改宗したり、家の一部屋を宣教師に貸し、長兄と3番目の兄は熱心なキリスト教徒となったり、とにかく近所では変わった目で見られた。

 

要吉はキリスト教にはあまり関心がなく、祖母と墓参りなどをよくした。このことから考えると、要吉は幼い時から自分の意志をまげず、はっきりした行動をする人だったといえよう。

 

何事にもませた少年で11歳の時、俳句を作った。

 

3番目の兄要助は画家志望の文学少年だったが、この兄がよく読んでいた「少国民」や「女学雑誌」を要吉は借りて読みふけった。

 

ある時、兄から借りて読んだ「文学界」で古藤庵(ことうあん)という人の詩に、要吉はいままで経験したことのない感動を覚えた。古藤庵は若き日の島崎藤村のペンネームである。この後すっかり古藤庵のとりことなった要吉は自分も詩を作り始めるようになったのである。


 

実らぬ恋

1895(明治28)年、要吉の家が商売に失敗した。そのため要吉は高等小学校を退学しなければならなかった。父はいやがる要吉をむりやり弘前の小間物屋に奉公に出したが、たった2ヵ月いただけで逃げ帰った。


家業の手伝いをしながら詩や文章を書く少年要吉の胸にはこのとき忘れることのできない初恋の人があった。


恋の相手は筋向かいに住む士族で厳格な家のひとり娘だった。商家である要吉の家とは交際の機会も少なく、門を出入りする少女の姿に胸を熱くするばかりだった。あるとき恋文を3日続けて少女の門の前の雪に埋めて待ったが、返事はもらえなかった。失恋の苦しみを詩や歌に託し、帆羊(はんよう)のペンネームで東奥日報に投稿、掲載されたのは、しばらく年月を経てからだった。

春の水流れ流れてゆく末は
君が胸にも浸みやしぬらん
この十年そば近くありことばさえ
かけがたかりし吾(われ)をしれかし


などと率直に恋心を表現して話題を呼んだ。


1897(明治30)年、15歳の4月、要吉は1回目の家出を決行した。家の商売の失敗、友人がみな上級学校に進みひとり孤独の立場になったことなど原因はいろいろだが、何よりも東京に出ればなんとか文学修業の道はひらけると思ったのだろう。要吉の家出をいち早くかぎつけて後を追ってきた母親を振り切って、川部までひた走りに走って汽車に乗ったのである。


東京では県出身で後に代議士となった工藤鉄男に救われ下宿屋の配膳(はいぜん)係をしたが、間もなく日本橋の足袋問屋に移ったところを、長兄に探し出され黒石に連れ戻された。15歳にして味わった挫折である。

 

その夏、島崎藤村が「若菜集(わかなしゅう)」を出版した。藤村が仙台でまとめた第一詩集で詩壇に新生面を開いた抒情詩(じょじょうし)である。

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり


「初恋」という題のこの詩をよんだ要吉は、感動で胸がふるえた。東京から連れ戻され悩むばかりだった彼は、「若菜集」に触発され、自分の進む道はこれしかないと改めて決意した。


1904(明治37)年、鳴海帆羊の名で処女詩集「乳涙集」を弘前から出版した。「乳涙集」の詩はリズムも内容もどこか「若菜集」に似かよっていた。

藤村との絆(きずな)

要吉が島崎藤村と心の絆(きずな)をもったのは11歳、藤村に初めて手紙を送ったのは19歳だった。


要吉が憧れの藤村に会う機会が、とうとう来た。所用があって北海道に渡るから会いたいという電報を受けたのである。


1904(明治37)年夏、青森市安方の塩屋旅館で、陸奥湾を飛び交うかもめの群を見ながら、藤村、要吉、雨雀の3人が語り合った。多感な文学青年雨雀と要吉が藤村に会って胸に去来したものは何だったろう。藤村はこの二人の青年のことを短編にモデルとして取り上げている。

 



同じ年要吉は黒石尋常高等小学校に代用教員の職を得た。


1905(明治38)年、要吉の「人恋(こ)うる歌」54首が10回にわたり東奥日報紙上に載った。


「吾が胸の底の茲(ここ)」という題で、恋人に対する烈しい感情を表現したものである。作品は県内の歌人を驚かせたが、反響は賛否両論さまざまだった。


「吾が胸の底の茲」を発表して間もなく、藤村のところに行って手伝いをすると家人には告げ、教員の職をやめて家を出た。要吉2回目の家出というべきか。詩集「土にかへれ」には次の1首がみられる。

をとめなる
君にむこ来(く)と
繕(つくろ)へる
家さへ見れどまことと思へ(え)ず

 

頼りにしていた東京の藤村の家には当時いろいろの事情があって住めず、藤村は友人の田山花袋に頼んで要吉を書生としておいて貰った。その後労務者になって働いたりしたが、健康を害して津軽に帰り、浪岡町吉野田の母の実家平野家に身を寄せた。


1906(明治39)年4月まで平野家にいて、健康を回復した要吉は本腰を入れて教員になるため、青森師範学校第二講習所に入学した。在学中はエスペラントの勉強に夢中になった。早熟でひたむきに夢を追った少年時代からの性格を考えるとき、エスペラントを習得して国際的詩人になることを要吉はあるいは夢みていたのかも知れないのだ。

 

1907(明治40)年4月、下北郡佐井尋常高等小学校に赴任した要吉は発信寺(ほっしんじ)に下宿、のち品田家に移り自炊生活をした。つかの間だが要吉の平安な時代だった。


同年弘前の佐藤キサと結婚、下北郡東通村田代小学校に転勤した。ここは本さえ手に入らないひどい僻地(へきち)で、校長も教員も要吉が一人で兼ねていた。生活は貧乏のどん底だが、村を取り巻く海は四季の変化に富み要吉の創作意欲を刺激した。そして自分で考え抜いた末に、鳴海要吉の口語歌の発想は生まれ形づくられていった。

磯がある
松原がある
寺がある
ああこの愁いどうしていいか


要吉が初めて発表した口語短歌である。中央でもぼつぼつ口語短歌が見え始めた時代だった。


下北の教員時代に創作した口語短歌に対する要吉の情熱は目をみはるほどだった。


1907(明治40)年4月からの2年間、漂羊(ひょうよう)のペンネームでたくさんの口語短歌を何回にも分けて東奥日報に発表した。中でも1909(明治42)年の「半島の旅情」には次の歌がある。

諦めの旅ではあった
磯の先の
白い燈台に
日が映(さ)して居た


本州の果ての下北に来た要吉の心情を知る歌として人々の胸に残ることになった。


佐井村の願掛岩(がんかけいわ)には要吉の歌碑が建っている。1962(昭和37)年村が建てたもので、その碑文が素晴らしい。


「わが国の文学史上、忘れることのできない優れた新しい短歌を数多く残された鳴海要吉先生は明治42年3月当時佐井小学校に赴任され(中略)村の人々と村の風景を深い愛情をもって歌われました(以下略)」
とあり、青黒い北の海を背景にした岩の上の歌碑にはいつ見ても蔦(つた)の葉がからまっている。

あそこにも
みちはあるのだ
頭垂(こうべた)れひとひとりゆく
猿がなく浜

 

漂泊そして受難

下北在住3年、黒石出身の口語歌人鳴海要吉の名がようやく村にも歌壇にも高まりつつあるとき、彼は飄然(ひょうぜん)と海を越えて北海道にわたった。1909(明治42)年、弘前市出身の校長に招かれて、天塩国増毛(てしおのくにましけ)尋常高等小学校に転勤したのである。ここで再びエスペラントを研究、ローマ字を生徒に教えたりした。1年ほどで古丹別(こたんべつ)尋常小学校に教員兼校長として転勤し、農漁村の子ども達を教えた。


1911(明治44)年夏のこと、要吉は社会主義者ではないかと疑われ、刑事の家宅捜索を受けた。疑われた原因は、エスペラント語やローマ字の歌などを生徒に書かせたこと、島崎藤村をまねて、窓を緑色に塗りつぶしたことなどであった。当時はこの一風変わった詩人のすることが何もかも注目の的だった。そして何よりも、幼友達の秋田雨雀、青森県出身の反戦詩を書いた大塚甲山らとの文通の証拠である手紙が見つけられたことであった。警察の目はしつこくつきまとった。
これに追いうちをかけるような事件がおきた。この年も終るころ、学校に奉安所ができ、天皇陛下のお写真が飾られることになった。

 

校長の要吉が役場の係員と馬橇(ばそり)に乗って、写真を受け取りに行った帰り、取り扱い方が悪いと係員に難くせをつけられたのである。つまり馬橇のこと、動くはずみで目より高くささげていた写真の位置が下の方になったというのだ。


言いわけも嘆願も聞き入れられず、不敬罪(ふけいざい)として3ヶ月の休職を言い渡された。


折あしく北海道では陸軍大演習があり、行動のあやしい者をさがし回っていた時だった。


同情をした村人や青年達が材を持ち寄り、荒野に小屋を建ててくれ、人の好意で薬の行商などをしたが、行く先々に警察の見張りがいて、思うように売れなかった。


7月30日、長女みどりが生まれ、一筋の明りが見えた要吉に1913(大正2)年3月にとうとう免職が言い渡され、北海道の荒野に職もなく放り出され、貧しさのどん底に落ちたのである。


北海道増毛町史には要吉は理由のない不敬罪に問われたと書いてあるが、運命のいたずらだとしか要吉には思えなかったのではなかろうか。


北海道生活5ヵ年、夜逃げするしか道はなく、妻と子を連れ、ふるさと黒石にも寄らず上京したのである。

 

 

土にかへれ

東京でも要吉の身辺に私服刑事の目は光っていたが、ローマ字が縁でローマ字社に勤めた。1925(大正14)年「土にかへれ」を漢字とかなまじりになおして出版、県内では反響をよんだが、中央歌壇をゆるがすまでにはならなかった。


翌年、藤村と相談して「新緑」という総合文芸誌を出したが、一般受けしないので、口語歌誌にきりかえ本の名も2度改名した。どうにか細々続けた雑誌も戦争で紙不足にもあい、135号までで終刊。最終号はたった4ページという哀れさだった。


雑誌廃刊後は童話を創作したが、その作品は秋田雨雀には及ばなかった。


1945(昭和20)年には大空襲にあい弘前に疎開、2男竹春の戦地からの帰りを待ちわびるなど要吉も第2次大戦の戦禍を受けたのである。


4年後、竹春の戦地帰還をまって弘前を引き上げ上京した。


翌年11月、黒石から「土にかへれ」の改訂版が出版され、要吉は招かれてふるさとに数日を過ごしあたたかい友情にふれた。


1955(昭和30)年、前から親交のあった棟方志功の庭に、要吉の歌碑が建った。


その後要吉は、東京杉並の二軒長屋を自分から和日庵(わびあん)と名づけ、比較的平安にみえたが、1956(昭和31)年、高血圧で病人の身となった。口語歌もだんだん作らなくなった。


和日庵での要吉を、右手を手袋でつつんで散歩する変わった老人として、人々は見ていた。町内には隣りに私小説作家上林暁(かんばやしあかつき)が住み、その他にも作家が住んでいたので、要吉はその人達の話題となったのである。先には藤村のそして花袋の後には今東光(こんとうこう)の小説や短編のモデルとなった。


1957(昭和32)年黒石文学会は、御幸公園に歌碑を建て、前後して尻屋岬にも歌碑を建てたが、病床にある要吉は除幕式には出席できなかった。二つとも「諦めの……」の歌が刻まれた。


黒石文学会はまた要吉をしのんで、黒石市来迎寺につぎの小さな歌碑を建てた。

なに思ふ
こどもも遊ぶあそべとて
春のよい夜の
橋もかわくに


と刻まれたが、その後1983(昭和58)年に黒石神明宮境内にも雨雀、要吉の生誕100年を記念して同様の歌碑が建てられた。

 


鳴海要吉いまは口語歌人の第一人者と人々にたたえられ、その作品の深さを賞賛されているが、これらは要吉の魂から湧き出る叫びとも思えるのである。少年時代から薄幸にたえ、貧しさにしいたげられ、失恋の痛手を負いながら最後まで夢を追い続けたのである。


1959(昭和34)年、要吉は77歳、静かに土にかえった。東京巣鴨駅近くの染井霊園に眠っている。

(執筆者 山田義子)