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正井 観順

「大回の※あじゃりさんがいらはったよ
お母さん、早うおいで」
「はいはい、カンジザイボーサーツ、
ハンニャハーラーミータージー」
※あじゃりさん→偉い坊さんの意味

 

1905(明治38)年5月、初夏とはいえ、まだ朝早い午前6時、京都東山の道筋は比叡山回峰行が始まって以来、千年の歴史に新たな1頁を加えようという正井観順行者の数珠をいただく善男善女であふれていた。人々は道端にひざまずいたり、しゃがんだりしながら手を合わせて生き仏様を待った。子供たちは行者に数珠でなでられると「ああ良かった。」と飛び上がる。

 

大回というのは、7年間にわたって行われる千日回峰行の中の最難関で第900日目から100日間行う。歩く一足一足が針の山に登る感じで、全くこの世の地獄といわれる。この行の100日間は連日84キロを歩く。そのコースには山あり谷あり霧の中の崖っぷち道あり町中ありで深夜から朝、昼、晩と17時間歩く。その間日常の言葉をつつしみ、午後9時以降一切無言、午後11時起床、午前2時無動寺谷のお堂を出て848メートルの比叡山を下り、まず京都の北野天満宮にもうで、午前4時二条城近くの神泉苑、午前5時清水寺、6時祇園、7時半修学院の赤山と回ってふたたび比叡山に登り、9時30分根本中堂着、そして山上で横川巡行をし、午後3時琵琶湖側の坂本大覚寺に降り、午後5時無動寺谷に帰って7時に一日の勤行(ごんぎょう)(おつとめのこと)を終る。

 

正井観順の写真

 

睡眠わずか2時間にして比叡山を登り降りし、その間3百数十ヶ所を拝礼し、経を唱える。正井観順はこの回峰地獄といわれた苦行を実に2555日行って行中にこの世を去った。

「近江屋の兄(あ)んこはたいしたもんだ。まだ6つなのに立派にお経を唱えている。」
「ふびんだな。3つでおっ母を亡くしたんだから淋しいんだろうよ。」

正井観順は出家する前は覚蔵といった。江戸で桜田門外の変のあった1860(万延元)年の12月7日、津軽郡尾上村に正井清次郎の長男として生まれた。母は黒石市上十川の宇野家の娘でサキといったが、覚蔵が3歳の年に姉タケと2人の子を残して亡くなった。

 

父の清次郎は人格者だった。それで弘前の殿様から親孝行ものとして2度表彰された。しかし、覚蔵が15歳の1874(明治7)年の夏に亡くなった。したがって田畑の管理や商売については叔父たちが後見役となった。

 

1882(明治15)年、覚蔵は22歳で従妹の宇野ヤスと結婚した。上十川の宇野家とは祖父以来三代にわたる縁続きとなった。宇野家は要七家といわれる豪農である。夫婦二人の間は仲むつまじく、長女トシ、二女テイ、三女リウと3人の娘にも恵まれた。しかし覚蔵の胸の底にはわだかまりがあった。それは父が残した遺産相続の件だった。時代が移り、法律が変ったといっても、叔父たちの分け方には不満があった。でもそれを顔には表わさなかった。村の婚礼や祭りには先頭に立ってひょうきんに振るまった。ユーモラスな歌をうたって踊った。村人はそういう覚蔵をみて人の良い何の屈託もない明るい若者と思った。覚蔵は雑貨商となった。その人柄から客がよくつき、毎年旧暦の8月14、15、16日の3日間にわたって行われる猿賀神社の祭りには、大きな叺(かます)にざっくり銭が入った。それでも覚蔵は悲しかった。金ゆえに血のつながった人間同士も憎みあう。信じている人間を裏切る浅ましさ、この世のことがすべてうとましかった。それにこの世ではいくら心残りがあっても、寿命が尽きれば死ぬのだ。まだ若い母は、3歳の自分と話すことの不自由な姉をのこして死んでいくことをどんなに悲しんだことだろう。父も同じだ。叔父も面倒みのよい人間だったが、財産のことになったら人が変わってしまった。

 

 

物にとらわれると人間はみにくくなるのだ。それで猿賀様の祭りのあとで神宮寺の和尚様にこのことを訴えた。和尚様は言う。

 

「それは煩悩じゃ。形あるものはやがて消える。今栄えているものも必ずおとろえる。人間の世界には永久不変というものはないんだ。仏教では諸行無常というんじゃ。それに人間の世界は本来、苦しみの世界じゃ。生きていくことは苦しいんだ。誰もが生身の体だから病気になる。老いる。そしてやがて死ぬ。これがいわゆる四苦だ。このほかに愛する者と別れる苦しみ、憎くって顔もみたくないと思っている人間と逆に毎日会わなければならない苦しみ、お前と叔父との仲がそうだろう。それに欲しいものが手に入らない苦しみ、そして体のエネルギーと心のエネルギーがあわない苦しみなどを合わせて八苦というのだ。よく四苦八苦というだろう。これじゃよ。

 

お釈迦様は2500年前にこのことを覚り、それらすべてに共通するのはとらわれる心、つまり煩悩にあるとし、すべてが変わりゆくという真理、諸行無常の真理を悟りなさいと仏教を開いたのだ。お前の名前は覚蔵だ。覚は悟りだな。蔵はお釈迦様の教えがいっぱいつまっているところ、つまり経典じゃ。お前は仏の道をきわめる運命をもってこの世に生まれたのだ。いつまでも遺産にこだわる心を捨てて、仏の教えを学ぶのじゃな。」

 

いつしか覚蔵は、日中の仕事を終えるとお経を唱えることを楽しみにするようになった。また東京や京都から仏教の講義録や本をとりよせ勉強も始めた。家庭そのものは一家団らんで皆仲良く、何一つ不自由なかったが、覚蔵の心の底には出家したいという気持ちがだんだん強くなってきた。

 

1891(明治24)年11月、覚蔵は尾上の店をたたんで黒石の中町に移った。商売は順調だった。しかしこの頃、黒石町を中心に津軽地方は政争が激しかった。1889(明治22)年に大日本帝国憲法が発布され、翌1890(明治23)年に第1回衆議院選挙が行われたが、この議会政治のあり方をめぐって青森県内には政府系と野党系の二つの政派が鋭く対立していた。とくに南津軽郡と北津軽郡では両派の勢力が優劣つけ難く、選挙運動は激しかった。覚蔵が黒石に移った1891(明治24)年は両派の争いがピークになっていた。覚蔵は宇野家の親戚であったので公民会(政府派の町内での呼び名)のため反対派の優勢な町内を必死に運動して歩いた。

 

そんな覚蔵が、政治はでたらめだと大ショックをうけた事件が、翌1892(明治25)年2月に行われた第2回衆議院選挙でおきた。

 

黒石町を含む南北両津軽郡の第2選挙区でも、黒石出身の民党系榊喜洋芽(さかききよめ)が882票とり、政府系の鎌田政通にわずか10票の差で勝った。しかし、実際は鎌田が30余票差で勝っていたのを、郡役所が細工したことだった。鎌田派は必勝を信じ、餅をつき、みかんまで用意していた。得票が不審というので裁判をおこしたが、投票用紙が焼却されてしまっていたので、何の証拠もなかった。この他の町会、郡会の選挙にしろ、覚蔵にとってはあれを聞き、これを見るにつけ、情ないという思いがつのるばかりであった。しかし日中は義理がたくこまめに動きまわり、嫌な顔は一つも見せなかった。

 

 

ところが、とうとう出家したいという長年の願いを覚蔵に実行させるショッキングな出来事が起きた。それは1891(明治24)年7月、津軽海峡白神岬沖で遭難した瓊江(たまえ)丸の三回忌法要で亡霊たちと出会ったことである。瓊江丸には千島・樺太・北海道の漁場帰りのやん衆(にしんとりに津軽地方などから出かける漁夫)300余人が乗っていた。その夜、海峡は濃霧にとざされていた。そのため不幸にも満員の瓊江丸(たまえまる)(79トン)は三吉丸(93トン、新潟の船)と暗闇で衝突した。船腹を破られた瓊江丸はあっという間に沈み、三吉丸に救助されたのはわずか70名で、250名は溺死した。悲報は津軽中を悲しみのどん底におとしいれた。尾上村でも14人死んだ。

 

翌々年の1893(明治26)年8月、尾上村の天台宗浄土寺で覚蔵は自ら主催して、慈眼大師(じげんだいし)(徳川家康、秀忠、家光の3代将軍に信任された上野寛永寺の開山天海大僧正のこと250回遠忌(おんき)(50年、100年など遠い仏の法要)を行ったが、あわせて瓊江丸死者の供養も行った。そしてその晩に、法要を終えて黒石へ帰る途中の追子野木の野合で、覚蔵は奇怪な出来事にあった。何十という亡霊の火魂が眼の前に現われては消え、現われては消えるのである。それは、供養をしてもらった嬉しさとも、まだまだ浮かばれない無念さともみえた。覚蔵は大きなショックをうけた。そのため霊魂が鎮まるまで2回、3回と法要を重ねて一週間に及んだ。この事件であらためて仏教の教えの有難さを心から味わった覚蔵は、いよいよ出家を決意した。

妻のヤスも、「あなたがそれほどまで思うなら私は一生尼になった気で3人の娘を立派に育てあげます。また、近江屋も守りますからどうかあとのことは心配しないで修行して下さい」と同意したので、秘密のうちに出立の準備をととのえることになった。商売もひそかに縮小して女手でまかなえるようにし、帳簿類も整理した。事が世間に知れては猛烈な反対が出るのは明らかだった。ちょうどこの頃、第六帝国議会が開かれ、野党が政府を猛攻撃したため衆議院は解散された。また選挙だった。このため覚蔵は、昼は町の政治家たちと選挙運動にかけずり回って世間の人たちと調子を合わせ、夜中にこっそり妻と2人で準備をととのえた。



あどけないトシ、テイ、リウの3人の童女は、父親との永遠の別れのことを露知らず無心の寝顔をみせていた。

 

1894(明治27)年4月、猿賀の神宮寺と仙台の仙岳寺の紹介状をたずさえて、覚蔵は黒石を出た。首には、父母と一昨年亡くなった姉のお骨を下げていた。菩提寺の大本山東本願寺に納めるためだった。この行事を終えて、いよいよ比叡山に入った。比叡山では、のちに大僧正として天台宗全体を指導した山岡観澄師の弟子となり、観順と改名、無動寺谷明王堂で修行に入った。時に観順35歳だった。

 

かねての念願を果たした観順は、必死に経を習い、修行を積んだが、遅い年齢で出家したので悟りに達するには通常の道を歩むのでは時間が足りないと思い、一般の僧たちが余り行わない大苦行を突破して悟りの道を得ようと決心した。それが回峰行である。

 

回峰行は平安時代から始まった比叡山の修行方法で、無動寺を起点として、7年間にわたって比叡山の山上山下の路を巡り歩き続け、道筋の神社、寺院はもちろん、一つ一つの木や石にも魂があるとして拝礼する。歩いている時にも口の中で経を唱え続ける。1日30キロを800日、60キロが100日、84キロが100日で、その間に無動寺明王堂で9日間にわたる断食、水断、不眠、不臥(ふが)の修行を2回行う。1000日の修行を終えると、直ちにわらじばきのまま御所に参内(さんだい)して天皇のご健康を祈る。また一般の信者は、回峰行を行った行者を生き仏として拝み、行者も護符やお守りを与え、病気快癒などの祈祷をする。千日回峰行の全行程は4万キロで、地球一周と同じである。行を開始したなら一日といえども休んではいけない。病気といえども休む理由とはならない。

 

不可能のときは死を決するか、ふたたびゼロからの出発となる。毎朝、湯灌(ゆかん)(死者の髪、からだを洗って身を清めること)をし、頭をそり白麻の死装束に身を固め、三途の川の渡し賃の6文銭をつけて出立する。回峰は年に100日ないし200日歩くが、始めの3年間は笠もかぶらず、わらじは素足につける。笠は檜で編んだ縦長で左右の縁をまきあげたもの、そして自害用の短刀をもって、畳の上からわらじをはいて死出の旅路に出て行く。始めのコースは、まず無動寺谷を出て根本中堂―西塔の釈迦堂―横川(よかわ)と山上をまわり山を下って坂本日吉(ひえ)神社―坂本―不動坂の嶮―東塔無動寺谷とまわって帰る。初めは7里半(30キロ)を歩くが、これには未完成の意味があり、千はまた永遠の意味である。

 

1585(天正13)年の復活以来、千日回峰行者として39人目の葉上照澄(はがみしょうちょう)は、回峰行の苦しみを「どれも一歩一歩が針の山を登るようで、まったくおかげなくしてはやり遂げられるものではありません。自力とか、他力とか、あれは理屈ですね。」と語っている。

 

1896(明治29)年11月、回峰千日行を決意した観順は、まず7日間の断食行を始めた。回峰行を行うためには厳しい行を幾つも越えなければならなかった。それらを皆突破した観順は、1897(明治30)年6月より10月初旬にかけて、見事に第一百日行を成しとげた。

 

観順の手足には、雲の形をした火傷のあとがすさまじく残っている。これは肉体の上で護摩(ごま)(祈りの木札)をたいたり、掌の中で灯をつけて回峰行に一歩踏みだす行為から生じたものである。

 

しかし、観順の急激な激しい行為に対して、長く比叡山にこもる他の僧侶から批判が出た。修行未熟で千年の伝統ある回峰行に挑むは不届きであるとされ、ついに山を下りなければならなくなった。そのため翌年麓の寺で戒律の修行を行い、さらに滋賀県甲賀の最勝寺に引きこもって、回峰行にかかわるすべての難行苦行を実践した。生死の境をさまようことが何度もあった。このため仏門の中では低い地位だが正式の沙弥(しゃみ)の位となった。しかし信心深い地方の人々は、観順を生きているお不動様として拝んだ。この最勝寺での修行が認められ、師の山岡大僧正の特別のはからいもあり、無動寺各寺院の協力も得て、1900(明治33)年6月、二百日回峰行に入った。京都には観順を拝む講が結成された。信者は800名をこえた。

 

正井観順の回峰第九百日大回りは、1905(明治38)年4月から8月にかけて行われ、ひき続いて第千日行が8月10日より11月7日まで行われ、回峰行は満行(まんぎょう)(完結)となった。

 

この千日回峰行をなしとげたのは、織田信長に比叡山が焼打ちされた天正以来では35人目にあたる。比叡山の記録には「三十五代東塔無動寺谷十妙院徒弟賜大僧都観順(とうとうむどうじだにじゅうみょういんとていしだいそうずかんじゅん)(津軽産正井氏)」とある。大僧都とは僧正に次ぐ僧侶の世界での高位である。

 

このような厳しい修行を積んだので、観順には多くの霊力が兼ねそなわり、そのお陰をうけようと帰依(きえ)する信者が1000人近くにも及び、信心講も拡大された。また多くの喜捨(きしゃ)(寄付)もなされた。しかし観順は千日の回峰行を完遂したあと信者にはかって講を解散させた。
観順には山を下りて寺の住職などに納まる気持がなかった。全身全霊をひたすらに回峰行にささげ尽くす気持だった。目標は回峰行を創(はじ)めた相応和尚が成し遂げて以来、何人も行いえなかった三千日回峰行の満願だった。

 

しかも観順には、別修行として護摩供養一千座、写経百巻などもある。写経はただ文字を写すのではなく、一字ごとに仏の名を唱え、合掌礼拝する。そして一巻を書き終えれば、特別に法要をする。それを百巻も行ったのである。観順はこの終巻を納めるため、琵琶湖岸の坂本の船着場に3基の大法輪石塔を建てた。その第1塔は父のため、第2塔は母のため、第3塔は師のためといわれるが、塔には「一切我等與衆生皆共成仏道(いっさいわれらとしゅじょうみなともにじょうぶつどう)」とあって、この世の人全部の救いのためである。
千日回峰行を終えたあと、観順は翌1906(明治39)年3月までの150日間、諸仏を30万回礼拝したが、毎日の読経(どきょう)、拝礼、加持祈祷(じきとう)などはすさまじい行だった。そして、1906(明治39)年4月2日よりいよいよ二千日回峰行に入り、1910(明治43)年11月23日満行となった。

 

正井観順のことを、今苅萱(いまかるや)という。苅萱道心の話は、一般には石童丸の物語で知られる。道心とは仏の道に入った人のことで、九州の領主加藤繁氏は世の無常に感じて、高野山に登って出家、苅萱と名のる。のち妻と子の石童丸が訪ねてくるが、女人禁制のため石童丸だけ山へ登るが、会った苅萱は父と名乗らない。母と妹が死に、石童丸は苅萱の許で出家し、父と知らず一生をおくる悲しい物語である。

 

観順が妻子を捨てたことは大変な話題となり、親戚では捨ておけないと多勢で連れ戻しにやって来た。このことで、観順の妻ヤスも責められたが、13歳の長女をはじめとして一家4人女子供だけ残して出家した観順も無責任きわまると非難された。

 

ことによっては、警察の手を借りても連れ帰ると叔父は息まいた。上十川の宇野家のしゅうとからは「ムスメヲツレテムカイニユク」という電報が来た。観順は進退きわまった感がしたが、鉄石の心で立ちむかった。親戚一同もあきらめた。この結果、観順の千日回峰行は故郷では余り評価されなかった。

 

1911(明治44)年の春、妻ヤスと娘が、甥の亮吉とともに一目逢いたいと比叡山に登って来た。しかし折から観順は、二千日回峰の大行を終えてさらに三千日回峰行へ出立すべく無音(ぶいん)無音の行中であった。そのため17年ぶりにはるばるやって来た妻子に逢わなかった。ただ亮吉は、待機していた室の襖の陰から人の泣く声がしばらく聞こえていたが、おそらく行者さんではなかったかと涙ながらに話した。世間では、親子の縁を切った、明治の苅萱と石童丸だといった。

 

1913(大正2)年9月18日、今日も早暁から観順行者はいつもの如く回峰行に出立した。2555日目である。普通、比叡三塔十六谷を一巡するのに14時間かかる。したがって、行者はいつもは午後5時過ぎに無動寺谷の元明王堂に帰ってくる。しかしこの日は、午後9時になっても帰ってこなかった。 留守のものたちは変事を察して近くの堂の住職に連絡をした。住職は山中の道を尋ね歩いた。行者道は険しい。時にはけもの道でもある。住職は木立の間を折からの月光を頼りに、無動寺坂を下りて行ったが、ある所で、はたとつまずいた。おや、木の根でも岩角でもないのにと目をこらすと、それは行者の倒れた体だった。行者は頭を北向きに、顔は西方をむいていた。そして、持ちものもきちんとたたんで道ばたに置いていた。そこは晴れた日には、琵琶湖とあの3基の塔がよく見える場所であった。観順54歳だった。

(執筆者 稲葉克夫)