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クララ 川村 郁

クララ 川村 郁 写真

 

平賀町善光寺平(ぜんこうじたい)開拓地に、大木平(おおぼくたい)小中学校善光寺平分校が開校したのは、1955(昭和30)年10月 [クララ川村 郁]
22日である。

当時黒石市立六郷第二小学校(現上十川小学校)の教師をしていた川村郁は、かねてからへき地教育への情熱を燃やしていたので、強い反対をする母親を説得し、自ら善光寺の山へ行くことにした。


ここは夏でも薪炭材を運搬するトラックが入るだけで、冬になれば全く交通が途絶えてしまう山奥の開拓地である。川村郁はこの地に生きる恵まれない人達のために一生をささげようと決意したのである。

 

1951(昭和26)年に、弘前のカトリック教会で洗礼を受け、クララというクリスチャンネームを授けられ熱心なキリスト教信者でもあったので、身も心もへき地にささげる覚悟はできていた。善光寺平では日中は子どもに勉強を教え、放課後は人手がなくて困っている家族の農作業の手伝いをし、夜は主婦達に料理を教える等、すべて恵まれない開拓地の人々の心のよりどころとなって働いた。

 

後にその業績が「第二の蟻の街のマリア」とも言われてカナダまで知れ渡った。「蟻の街のマリア」とは、終戦後、東京でくず拾い等をして極めて貧しい生活をしていた人達の住むバタ屋部落に入り、暮しを共にしながらほほえみを忘れず、人々の心の支えとなって働いた北原玲子(きたはられいこ)のことである。


しかし仕事の無理が出てきて、2年後には糖尿病と眼病におかされて下山しなければならなくなった。弘前大学や神戸医科大学の病院等で5年間の闘病生活をしたかいもなく、1962(昭和37)年11月27日帰らぬ人となってしまった。35歳だった。

 

川村郁は、1927(昭和2)年東津軽郡蓬田村(よもぎたむら)で、父文行、母たまの長女として生まれた。6男4女という兄弟姉妹の多い家族の中で育ったせいか、誠実でやさしく世話好きな反面、思ったことは努力して最後まで成しとげる気の強い女の子でもあった。


父は教員であり、転勤する度に教員住宅に移り住む生活を繰り返していたし、兄2人も師範学校(先生になるための学校)に入って教職を目指していたという教育一家に育った。ところが、父が1941(昭和16)年に48歳で死去したことから、11月に母の実家がある黒石市山形町に引越して来た。そしてここから弘前高等女学校(現弘前中央高等学校)に通い、成績優秀で卒業し、1944(昭和19)年4月からすぐ中郷国民学校(現中郷小学校)で教員生活の第一歩を踏み出した。

 

1955(昭和30)年秋、東奥日報紙上に、黒石市から38キロも離れた開拓地善光寺平の主婦達が、学校はあっても教師がいなくて困っていることが報道された。当時六郷第二小学校に勤務していた川村郁は、貧しい子らを教育する者は私のほかにはいないとひそかに思い、以前から胸の中にあったへき地教育への情熱を燃やし夢をふくらませた。病床に横たわりながら書いた「山の子らのために」という手記からも、その情熱や決意のかたさがひしひしと伝わってくる。

へき地教育への強い信念

善光寺平に行くまでへき地教育の重要性を真剣に考えはじめ、「自分の弱い力ではとても完全にやれることはできないまでも、できる限りの努力と情熱で、恵まれない子ども達のために献身しよう。」と心に決め、母に話を持ちかけたのは昭和26年頃である。


まだ教育界でも、へき地にやられる先生は成績の悪い人、事故を起こした教員と言われていたので母はこの話にまっこうから反対した。「何も事故を起こしたわけではなしの女の先生が、そんな山奥の開拓地へ行ったら世間の人はどう思うの。川村の娘が何だってまた山奥へ行ったのかと、疑いの目で私を見るだろうと思うと肩身が狭くて町の中を歩けない。」と、理解あるいつもの母に似ず冷たい返事だった。母にしてみれば、娘の身を案じたあまりに出た言葉であろうし、一家の経済的な柱であった私にそんな辺地に行かれてしまったら何か頼り気ない不安な気持ちであったのだろう。機会ある毎に恵まれない子ども達のことを話してやっても、この話にだけは耳を傾けようとはしなかった。「母さん、私、学校にいて事故起こしたことある?悪い教員であったかどうかは村の人達に聞けばわかるじゃないの。へき地へ行ってうんと働き、子ども達が少しでも幸福になり、開拓地の人達のためになったらそれでいいじゃないの。世間の噂が恐ろしいの、肩身が狭いだのと言ったって、それは時が解決してくれるんだから。」と必死の説得をした。へき地へ行きたい娘とやりたくない母との水かけ論は3年も4年も続いた。


1955(昭和30)年の春、ようやく母の腰が折れ、「それほどまでに行きたいのなら行きなさい。しかし行ったら必ずがんばれるだけがんばらなければだめ。長くはいないで3~4年ばかりいたら下へ降りてきなさい。」と言ってくれた。「3年で何ができるかしら。自分では最低5年、できれば一生涯そこで生活してもよい。」と心の中で決めていたのに3年で帰れという母。でも3年だけは行ってもよいと許しを出してくれるまで相当悩んでのことであったろうし、大きな決心をしての許可だったことを思うと涙の出るほどありがたかった。

最初の日

1955(昭和30)年10月22日。この日は私にとって一生涯忘れることのできない感激の日である。


朝から冷たい秋雨が降っていた。母が「どんな所かこの目で確かめないうち安心できない。」と、山登りのためにモンペをはいて同行してくれた。黒石発一番のバスで2時間半。温川で下車して5、6人の迎えの人に案内されて道の左側に入った。

 

 

細く険しい雨の山道なので母は大変だったらしいが私は平気だった。この険しい道がこれから私の進んで行く道なのだ。これを克服していくのが私の義務なんだと、一歩一歩踏みしめながら山道を登った。道を曲がる度にひらける雄大な自然美に目を奪われながら登った。見渡す限りの広い根曲がり竹の群生を見た時、こんな未開発の原野があったのかと思うほどの広大な野原であった。


大道路を500メートルも歩いたろうか。はるか前方の雑木林の木の間越しに日の丸の旗がへんぽんとひるがえるのが見えた。


「ああ、こんな奥地にも日本人が住んでいるのか。人里離れたこの奥地がこれからの働き場なんだ。」と新たな感慨がわいてきた。


集会場を改造して作った新校舎に「善光寺平分校」と書かれた墨痕(ぼっこん)鮮やかな校札のかかった学校があった。日章旗の外に笹の葉を集めて作られたアーチがすばらしく、紅葉した葉っぱを張りつけて“祝開校”と書かれていた。穴を掘り石を積んで作った原始的なかまどでは、祝宴のためのごちそうが大きな鍋でぐつぐつ煮立っていた。その周りには、とっておきの新しいエプロンをかけたお母さん達が20余人もにこにこしながら、新しく来たおなご先生を迎えてくれた。「まあまあ先生、こんな山奥までようく来てくださいました。私達はどんなにか先生のおいでになるのを待っていたか。……」と、涙をボロボロ流しながら言ってくれた。こんな人達と手を取り合って一つ心になって働けるのであれば、へき地の一人ぐらしも何でもないという安心感と、期待を裏切ってはいけないという重大な責任感が頭の中で交錯した。

 



善光寺平の入植年度は1952(昭和27)年である。当時国や県では農家の2・3男に、山地の開拓をさせ食糧の生産をするようすすめていた。黒石市でも終戦直後の1946(昭和21)年に厚目内、高場、1951(昭和26)年に葛川平(くずかわたい)、次の年には青荷沢の開拓が始まっているが、平賀町では善光寺平のほか大木平等の開拓が行われていた。


入植した人達は、補助金や山作業の収入、冬の出稼ぎ等の収入でやっとくらしを立てていた。冬は雪がとても深く、電気なしのランプ生活で、冷害続きや農産物の価格が下がること等により極めて貧しい生活だったので逃げ出す人も多くなった。

 

善光寺平は早くから畑岡村(藤崎町)が分村入植を希望し、並々ならぬ力を入れてきたが、想像もできないような苦労が多く、冬が長く将来の見通しが暗いので次々と山を去る人が出たのである。

 

開校式

校舎に入ってみた。材料を出し合って作った真心のこもった水呑場(みずのみば)(台所)、私の居間(押し入れも床もある)には畳はないが新しいござが4枚も重ねられ、8畳いっぱいに敷きつめられていた。障子で仕切られた8坪の教室には新しい机、腰かけ、黒板、それに私と一緒に山へ登ってきたセビア色のベビーオルガン。教室の後に大小便所が一つずつ。これが校舎のすべてであった。こんな小さな学校でも、今日からここが私の働き場所とすみからすみまで眺め回した開校式。16人の子ども達は緊張した顔で行儀よく並び、来賓の祝辞や私の挨拶に黒い瞳を輝かしていた。

オルガンの音に逃げ出す子

私と同じ日に山へ登ってきたベビーオルガン。最初このオルガンを見た子ども達は、何か得体の知れない物に見えたのか好奇の目を向けて、
「先生、これなあに?」
としきりに聞く。大きい生徒は知っていたが、小さい子達の大半は知らなかった。

「オルガンって言うものよ。きれいな音がでるよ。解いてもらったら鳴らしてあげるよ。」と約束した。


包装を解き教室の中に置いた時、新しい先生もさることながらこのオルガンに子ども達の目が集中した。ふたをあけ「ブー」とドミソの和音を弾いた。
「ウワァーッ。」
と目を丸くして驚いた子ども達の顔。変な顔をして逃げ出そうとした男の子がいた。今度は私の方が驚いた。オルガンの音に逃げ出す子、これがへき地の子か。
「だあれ、逃げださなくてもいいのよ。こわくないの。さあ歌をみんなで歌いましょう。」
と知っていそうな歌を次々に弾いて歌わせた。


オルガンの音に逃げ出そうとした子も、もう5年生になった。

貧しい子ども達

4年間も野っ放しだった子ども達の学力は想像以上に低く、それに加えて教具らしいものは何もなかった。文明の発達している町の子ども達に比べ、こんなみじめな恵まれない子もいたのである。この貧弱な学校でも子ども達は喜んで通って来る。


低学年だけでも手の回りかねる忙しさなので、午前中高学年はほとんど自習。午後低学年を帰宅させた後高学年の指導。学力差のはげしい5人の子どもと一緒に机を並べ、辞書をひいたり数学の問題を解いたりして、生徒と共に勉強した。小学校から中学校まで16人であるが、町のすし詰め学級よりも疲れはひどかった。

 

セーターが2枚しかないので寒さが厳しい夜など足りないだろうと、毛糸を持って上がった。しかし16人の中で手袋を持っているのはたったの4人。あとの12人は手袋をはかず冷え切った手をポケットや袖につっ込んで通学して来た。この子らに手袋もはかせずに、自分だけぬくぬくとセーターを作ることができようか。これを見てからすぐ手袋作りに取りかかった。2本指の手袋を暗いランプの下でせっせと編んだ。1日も早くはかせてやりたい一心で、ランプの油が切れるのも知らず編棒を動かした夜もあった。全員頭文字の入った手袋をして登校して来るのを見たとき、セーターを1枚多く着るよりも温かい感じだった。


毛糸のズボン下3枚はいても寒いのに薄いズボン下1枚はき、お尻の見えている子もいた。この子はどんなにつらい思いでこの寒さに耐えているのだろうか。母に頼んで妹のお古のももひきを送ってもらった。


「好一君、これはきなさい。」と言って持たせてやったが翌日はいて来なかった。聞いてみたところ母ちゃんがはいたという。ふとんもなく家族全部がこたつに足をつっ込んで夜をあかすという貧しい開拓者の人々に同情せずにはいられなかった。


手記はまだまだ続く。無医村のため夫や愛児を残して死んだ零細開拓者の妻。病に倒れたまま3日間も放置され発狂して死んだ教え子の母等、想像できないほどの寒さと貧しさの中で共に生活をし共に苦しみ悩んだ毎日が克明に書き残されている。その度ごとに心を痛め力のいたらなさを嘆き、神に救いを求めたに違いない。
川村郁は弘前カトリック教会の、フォールテン神父から洗礼を受けた熱心なクリスチャンでもあった。日曜日には自分が宿泊している場所を利用して、キリストの教えを説いた。このことが縁で善光寺平にはりっぱな教会ができたのである。開拓地に生きる一人として鍬(くわ)を持ち、土地を耕したり部落の人の農作業を手伝ったりしながら教育に一生をかけた業績が、黒石カトリック教会のジョリコール神父によってカナダに紹介され、1963(昭和38)年ルイ・クパール賞が授与された。この賞は、カナダのモントリオールで神学校の教授をしてアジアの研究者であるルイ・クパール夫妻が、社会のために献身的に奉仕した人に贈っているもので、わが国では「蟻の街のマリア」の名で知られる北原怜子に次いで2人目である。賞状には「クララ川村郁さんの献身的な行為と克己(こっき)とは、心の高尚そのままであります。日本人のクララ川村郁さんの偉大な献身的行為を認めて、この賞をお母様に贈ります。1963年11月1日、諸聖人の祝日」と書いてある。金メダルは直径6センチメートル、フランス語でその功績を刻んでいる。


開拓地の教育に一生をささげようと決意した川村郁も病気を克服することができなかった。1957(昭和32)年2月から糖尿病と眼病をわずらい、後髪引かれる思いで学校を休み、弘前大学や神戸医科大学病院へと入院をくり返した。しかし病気はなかなかよくならず、1959(昭和34)年9月には退職せざるをえなかった。

 

後にどうやら快復した時期があったので、黒石カトリック教会が経営する「善光寺平保育所」の保母として勤めた。しかし、病気は徐々に体をむしばんでいた。自分でもそれは知っていたが、最後まで善光寺平の人達のために献身しようと心に決めていたので、病気のことはひと言も言わなかった。亡くなる直前に下山し黒石病院に入院したが手遅れであった。弘前大学附属病院で治療していた時、たまたま同病院に入院していた植村環(うえむらたま)(日本キリスト教女子青年会指導者)は、病気が快復して退院する際、病床の川村郁を見舞い和歌を贈って激励した。

急がずばぬれざらましを旅人の
後より晴るる夏の村さめ


夏のにわか雨は、雨やどりをして待っていれば必ず後で晴れてくるものだ。つらいけれども焦(あせ)らずにがまんしていれば、必ず治るからがんばってほしいという意味である。


この心境はクララ川村郁を取り囲むすべての人達の願いでもあった。しかし、母や弟妹、ジョリコール神父に見守られて息を引き取ったのは、1962(昭和37)年11月27日。最後まで笑顔をくずさなかった。


クララ川村郁の死は、善光寺平の人達にとってはあまりにも大きな損失だった。へき地教育に火をともし、厳寒と貧困に悩む開拓者と共に生きようとした「へき地教育の母」の業績は教育界にとっても大きな損失であった。


クララ川村郁は柵ノ木の墓地に眠っている。

(執筆者 白戸順一郎)