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綾川 五郎次

綾川五郎次、本名村上要作。父専蔵、母まきの二男として1883(明治16)年11月2日、黒石市上十川に生まれた。

 

綾川 五郎次 写真


小学校を卒業してまもなく、黒石市前町の呉服商、マルニ鳴海作兵衛商店に奉公する。現在のマルニ商店である。そのころのマルニ商店は黒石きっての豪商で、番頭から使用人、家族をあわせると20数人の大所帯である。毎日のご飯仕度だけでも大変だったろう。1俵(60キログラム)の米を4、5日で食べてしまうほどだったので、そのつど要作に声がかかった。


「蔵から米を運んでこい。」


まだ14歳になったばかりの少年要作は、すぐ駆け出して、米蔵から右手に1俵、左手に1俵と、両腕に2俵の米俵を抱えてやってくる。


ある夏のこと、黒石の町が洪水になって前堰(まえぜき)があふれた。見ると側溝に大きな石が崩れ落ちて水の流れをふさいでいる。近所の若者が4人も5人も集まって、石をどけようとしたがびくともしない。これを見た要作は、よいしょとばかり持ち上げて、「これでえがべ。」みんなはその怪力に舌を巻いた。相撲になりたいと思い始めたのはそのころからである。綾川の自伝ともいえる「一味清風(いちみせいふう)」という本によると、「私の力士熱は日々に長じ、年々に熾烈となって、ぜひとも江戸に出て立派な関取になりたいと矢も楯もたまらず。」と書いている。

 

 

そしてのちに、先代岡崎守三に頼んで高砂部屋(たかさごべや)の門をたたくことになる。岡崎守三は当時、黒石一番の古い旅館を経営していたが、巡業の途中で病気になったり、けがをした力士の面倒をみるなど町の世話役でもあった。鳴海家とは隣り同士でもあり、要作少年のよき理解者であった。


黒石神明宮(前町)の境内に「義侠(ぎきょう)岡崎守三の碑」が建っている。「大正4年、綾川五郎次、小野ヶ崎金作これを建つ」とある。
いよいよ上京したのは1905(明治38)年1月3日のことである。親の許しを得たわけではない。「そんなに力士になりたければ親子の縁を切る。」これが父専蔵の言葉であった。


しかし心はすでに決まっている。父があんなに怒るのも、故郷に頼るものがあっては修業に励みがつかない。なあに一生懸命修業して立派な関取になりさえすれば、父への詫びがかない、今の怒声はやがて笑顔で迎えられるに違いない。父への取り持ちをくれぐれも兄に頼んで、逃げるように東京へと旅立った。21歳のときである。

 

東京・本所にある高砂部屋の格子戸に手をかけたときの胸の高まり。
「ごめん下さい。」
ほどなくして50歳くらいのおかみさんが現われた。
「用事があるというのはお前かい。」
「はい、はづめてお目にかかりまし、相撲(しもう)取になりたくて、青森から参りますたもの、何卒よろしく。」
津軽弁まる出しで、後生大事に握ってきた国元からの紹介状を差し出したときは、ただ口をもぐもぐ動かすばかり。予習してきたはずの雄弁はもうどこかへ消えていた。
「ああ、よくわかりました。」
おかみさんは大きくうなずいた。綾川の相撲取り人生初日の情景である。

 



さて、褌(ふんどし)かつぎは力士の一年生、どこへ行っても頭が上らない。親にもらった名はあるけれど、そんな名前はどこへやら、ただもう野郎々々(やろうやろう)と呼び捨てられる。修業とあらばぜひなしと、その日からは、あっぱれ野郎となりすまし、おさんどん(飯炊き)から三助(風呂たき)まで一切万事やってのけた。綾川後年の述懐(じゅっかい)である。

 

そして一月場所がきた。綾川の四股名をもらっての初土俵を踏む日である。あすは早いから今夜は早く寝ろといわれたが、とても眠れない。12時を過ぎた。時計が3時を打つ。こっそり起き出して稽古褌(けいこふんどし)を脇に抱え込む。忍び足で部屋を出た。南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、今日の相撲を守りたまえと唱えながら回向院(えこういん)に向かう。回向院の奥庭に両国国技館が完成したのは、それから4年後の1909(明治42)年6月である。


朝4時に土俵があく。呼び出し奴(やっこ)が呼び上げるとすぐ土俵へはい上って2人を倒してはじめて1つの星となるのだ。仕切るでもなし待ったもない。飛びつき相撲である。初日は4人を倒して2つの星をあげ、その後も連戦連勝、4日後には本中(ほんちゅう)に昇進した。本中というのは前相撲のうち番付に入る直前の地位である。五日目から本中である。仕切りもできれば待ったもできる。まあ格好がついたわけだが、ここでもまた全勝して新序ノ口へと出世する。


だがこの出世には猛烈な祝儀が待っていた。げんこつの雨である。気をよくして支度部屋に引きあげるのを待ち構えていた先輩たちは、おめでとう、おめでとうと言いながら鉄拳の一撃、続いて二撃。けがをすることはないけれど、すいぶん乱暴なご祝儀もあったものだ。いまの相撲社会では、もうそんなことはないようだが、明治のころはまさしく力と力のぶつかり合いであった。


こうして次の五月場所では番付にはじめて名前が載った。順調なスタートである。1910(明治43)年6月、十両入り。その後病気もあって一時幕下に陥落したが、1914(大正3)年1月、30歳と遅咲きながらも入幕を果たすことになる。身長175センチ、体重107キログラム。均整のとれた体である。先代若乃花(現相撲協会理事長)が現役時代、179センチ、105キログラムといわれたから似たような体型である。左四つからの吊り寄り、下手投げ、首投げなど豪快な相撲っぷりで土俵を沸かせた。

 

ことに1914(大正3)年の五月場所4日目、東前頭八枚目で、美男大関として知られた当時の最大のスター、鳳谷五郎(おおとり やごろう)を首投げで破って満場をうならせた。さらに大正5年一月場所6日目、今度は東小結の地位で新横綱となった鳳を再び首投げにほふり、関脇昇進を決めた。

 


最高位は関脇だが、男っぷりがよく、しかも変幻自在(へんげんじざい)の技のさえは、多くのファンを引きつけた。ことに当時の粋(いき)すじの姐さんたちの間では引っぱりだこの人気スターとなり、毎日のように新聞を賑わした。しかし、三役に定着したころから持病の腎臓結石(じんぞうけっせき)が悪化し、新関脇の場所は初日取っただけで休業した。その後も休場がちとなり、1921(大正10)年1月、西前頭十四枚目を最後に引退、年寄千賀ノ浦を襲名することになる。

ここで巡業中の奇行を紹介しておこう。
1906(明治39)年の春といえば、日露戦争が終って国中が戦勝気分に湧き立っていたころである。相撲はどこへ行っても大入り満員であった。
綾川はまだ序二段、髪はくわいの取っ手のように不体裁であるが、意気盛んな若者である。

 

(くわいというのは、沼に自生するおもだか科の多年生植物。くわい頭といえば昔、医者などが結った髪の型で、総髪をうしろに束ねた格好。くわいの芽に似ているので、そういわれた。)

巡業は大阪から九州と回って佐賀を最後に解散した。いつもならみんな一緒の団体行動で東京に帰るのだが、この時は自由行動が許された。籠から放たれた小鳥のように喜んだのはよいけれど、わずかばかりの小遣い銭はすぐさま底をついてしまった。下関に着いたらもう一文なし。これから先、50時間の長旅をどうしよう。泥棒するわけにもいかないし、乞食になるわけにもいかない。大阪駅に着いたのはお昼ごろである。


「おすしに弁当、ビールに正宗(酒の名前)。」

 


駅弁の売り子の呼び声がすきっ腹に響く。耳をふさぎながらホームに降りて、水道の栓に口をつけ水をがぶ飲みした。水っ腹で一時を過ごしたが、まさに土左衛門にも似た哀れな心境である。でも、これしか方法がない。名古屋、浜松、静岡と水っ腹作戦を繰り返しながら、新橋駅に着いたときには、めまいがして足腰が定まらない。やむなく駅から人力車に乗って本所に向かう。

 

部屋に着いて、「おかみさん、車賃35銭を払って下さい。」「オヤ、お前、車に乗って来たのかえ、生意気に、なんだい序二段の褌かつぎじゃないか。」
さんざん小言をいわれたのはいうまでもないが、そこは親方のおかみさん。極度のすきっ腹に大飯はいけないと、その日はおもゆ、翌朝はおかゆ、夕方になってようやく米の飯を食わせてもらったときの嬉しさは、ああ、泣き出したいほどであった。


翌年の1907(明治40)年夏、今度は北海道に巡業した。五月場所は幕下で優勝し、前途は洋々としてひらけつつある。北海道の手前はふるさとの黒石。あるいは父が来てくれるかもしれない。その父には会えなかったけれども、兄専助が父にかわってやって来た。そして言う。「父は朝夕、そちの健康を祈っているぞ。」「よし、きっと立派な力士になってやる。」兄の手を握りしめながら誓った。


その誓いどおり、十両二枚目に出世した1911(明治44)年、今度は弘前に巡業した。郷里とは長い間隔絶していたが、今度こそは帰れると、川部駅から出発しようとしたそのとき、綾川をじっと見つめていた青年がいた。のちに相撲の神様といわれた名大関、大ノ里萬助(藤崎町出身)その人である。大ノ里が角界入りしたきっかけは、若き綾川の雄姿にひかれたためだといわれる。人々を魅了するに十分な器量を秘めていたのだろう。若さあふれた人間が、目的に向かって登りつめてゆくときの凛々しさといってもよい。


大ノ里の天内萬助は幼い時から無類の相撲好きで、早くから力士になる夢を抱いていた。横綱梅ヶ谷一行が弘前巡業にきたとき、親には内密に一行のあとを追ったが、兄に見つけられて、このときは連れ戻されている。綾川が郷土入りしたのはその翌年であろう。奥羽線川部駅には青森県知事代理、郡長以下の有力者が居並び、黒石小学校の児童が小旗を打ち振って、大銀杏に紋付き羽織袴(はおりはか)の関取綾川をにぎやかに出迎えた。


その晴れ姿に感動した萬助青年は、父弥助に無断で米1俵を汽車賃に単身上京したのである。萬助19歳のときであった。


綾川五郎次は角界切ってのインテリ力士と言われた。大学を出たわけではないが、上野の図書館にチョンマゲ姿で3年間通ったと伝えられている。著書「一味清風」は相撲の歴史、四十八手の解説とその極意が書かれているが、その中に彼の波乱万丈の人生哲学が余すところなく語られている。ともかく一風変った新しがり屋でもあった。


幕下だというのに、当時幕内力士にしか許されなかった二人引きの人力車を乗り回して悠然としていたというし、十両入りしたころには、明治大学相撲部の師範をつとめている。プロの力士でありながら、学生相撲の指導をかって出たのだ。だから本場所ともなれば、両国国技館の3階席には、明大応援団が陣取って、「フレーフレー、ア・ヤ・ガ・ワ」の大声援がおこり観客を驚かせたものである。

 


その明大の講師として出掛けるときなどはフロックコート姿でさっそうと街をゆき、ハイカラ力士と騒がれた。チョンマゲ姿にフロックコートをつけ、蝶ネクタイをしめた写真が今も残っている。

 

綾川のもう一つの顔として自彊術(じきょうじゅつ)がある。自彊術というのは簡単にいうと、心身を鍛える健康体操といってもよいようだが、綾川自身、重い病気にかかったとき、この自彊術の治療で救われた体験がある。以来、信仰的ともいえるほどの熱心さで、自彊術の宣伝と実践活動を開始する。
綾川の講演は全国的な規模で行われ、大きな反響を呼んだ。出羽海、鳳組の合併巡業で広島を訪れたとき、綾川は広島市西高等小学校に招かれて講演したが、のちに同校からたくさんの感想文が寄せられた。その一端をみる。


そして綾川の来校記念として「高潔従容(こうけつしょうよう)、力量卓越(りきりょうたくえつ)」「綾川力士角力道(すもうどう)の花」などと書かれた生徒たちの書が届いている。よほどの感銘を与えたに違いない。


綾川夫人、晏代(やすよ)さんとは自彊術がとりもつ縁で結ばれた。本名むめ。芸者のころの源氏名は「小雛(こひな)」。新橋芸者の三羽烏といわれたほどの名妓であった。


そのころ綾川は両国橋のすぐそばにある自彊術本部の道場に通い、自ら実践者として多くの人たちの指導にあたっていた。百畳敷きもある広い道場で鍛錬するのだが、そのなかに晏代夫人がいた。


のちに東京・築地に「金水館」という旅館を経営するが、紹介状がなければ泊れないという格式の高い旅館であった。政財界のお偉方や、高級軍人など、綾川の幅広い人間関係は、こんなところからさらに広がっていったようである。


綾川ほど、さまざまな事業に手を染めた人は少ないだろう。しかも、そのスケールの大きさと先見性は驚くばかりである。満州に1万ヘクタールのりんご園をつくろうとか、酸ヶ湯の温泉を青森まで引いてこようとか、常に人の意表をつくものばかりであった。


1923(大正12)年には黒石市浦町(当時はマルニ商店の敷地、現在、柴田久次郎宅)に青森県はじめてのりんご加工工場を建てた。りんごを原料としたリンゴ・サイダーだとか、ブランデーやシャンパンの製造を目的としたものである。いまでもその煉瓦造りの建物が残っている。これにはマルニ商店やキュウマル鳴海醸造店などが資金協力した。アメリカ帰りの技術者を招いたりして精魂をかたむけたが、うまいぐあいに製品ができないままに挫折した。 なにせ時代が早過ぎた。今でこそ、ワインだブランデーだと、大衆的な飲み物になっているが、当時はハイカラにすぎて庶民になじまなかった。


また1928(昭和3)年には、レスリングの興行をやっている。自分の弟子である古参の幕下力士をにわかレスラーに仕立てたうえ、3人の外人を招いて、「日英米レッスリング競技会」(ツの字が入っているところがおもしろい)と銘打って国際試合をやったのだ。初めのうちは物珍しさも手伝って、かなりの人を集めたが、次第に客足が落ちて興行は失敗、大きな赤字を背負い込んだ。


スポーツ平和党のアントニオ猪木が参議院議員に当選するなど、いまでならプロレス人気はなかなかのものだが、これまた60年も前のこと、やることが早過ぎた。


ハイカラ好みで時代の最先端をゆく綾川だが、心はいつもふるさとに思いをはせていた。夏の暑い盛りになると、「わっぱ飯さ茄子漬」のうまさが忘れられない。漬けたばかりの、あの鮮やかな茄子の色あい。丸ごとガブリとかじったときの爽快な気分は、ふるさとならではのものである。

 


長坂山で夏草を刈って汗を流したあとの、わっぱ飯と茄子漬のおいしさ。そのわっぱで冷たい沢の水を汲んで、ごくごくと飲みほす。のどから腹にしみわたって、わがふるさとはいつまでも平和なのだ。綾川亡きあと、母まきさんは、茄子がとれるころになると、きまって仏壇に茄子漬を供えたものである。

1933(昭和8)年2月16日午後4時20分、持病の腎臓結石が悪化して、入院先の東京・聖路加病院で死去した。ときにまだ49歳の若さである。
要道院自彊綾川居士(りょうせんこじ)。

 

黒石市長坂で、綾川の家系を継ぐ村上要一さんのお座敷には、化粧回しをしめた関脇時代の堂々たる写真が飾られている。その写真には、陸軍大将一戸兵衛の筆で、「快男子綾川五郎次」と書かれている。また、いかにも若々しい十両時代の写真には「雄風」の二字がしたためられている。東郷平八郎元師の側近で文人提督(ぶんじんていとく)として知られる海軍中将小笠原長生(ながなり)の筆である。


これらの写真を眺めながら、要一さんはポツリと話してくれた。


「夢の大きかった人でしたよ。」

(執筆者 柴田黎二郎)