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花巻遺跡/甲里見(2)遺跡/一ノ渡遺跡

現在、黒石市内には184箇所の遺跡が確認されています。その分布状況を見てみると、遺跡は主に水が豊富で、平坦な丘陵地に所在しています。これまで発掘調査した遺跡の数は15箇所ですが、重要な遺跡3箇所について紹介します。

黒石市内における発掘調査

昭和50年 浅瀬石遺跡、牡丹平南遺跡 昭和63年 甲里見(2)遺跡
昭和51年 高舘(1)遺跡 平成3年 地蔵沢遺跡
昭和52年 一ノ渡遺跡 平成4年 地蔵沢遺跡
昭和54年 板留(2)遺跡 平成5年 豊岡(2)遺跡、白π(1)遺跡
昭和59年 長坂(1)遺跡 平成6年 白π(1)遺跡
昭和60年 花巻遺跡 平成7年 黒森下遺跡
昭和61年 石名坂遺跡 平成9年 長坂(1)遺跡
昭和62年 花巻遺跡 平成11年 築館遺跡、石倉下遺跡

花巻遺跡 ~縄文時代~

遺跡発掘の風景

発掘された遺跡

石棺墓

花巻遺跡は学史的に有名な遺跡です。この遺跡が文献に出てくるのは菅江真澄の『追柯呂能通度(つがるのつと)』です。真澄は、三河国(現在の愛知県豊橋市)で生まれ、天明3年(1783)に遊歴の旅に出ました。旅の目的は未知の国に対する探究心で、彼は各地の名所などを訪れ、旅の記録と彼の見た生活の様相などを日記とスケッチに書き残しています。

 

『追柯呂能通度』は、寛政10年(1798)の作品ですが、花巻遺跡から土器や石器、土偶の頭部などが出土していることが記述されています。この他に、三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡について多くの土器が出土している様子も描かれています。

 

明治時代から昭和初期にかけて多くの若い考古学者が誕生しましたが、その中に中谷治宇二郎がいます。中谷治宇二郎は、昭和3年(1928)に黒石を訪れ、佐藤雨山の案内で花巻遺跡の発掘調査を行いました。2日間の調査でしたが、多量の土器と石器が出土し、また、石棺墓が発見されています。中谷は東京に帰ると花巻遺跡に関する論文を発表しましたが、その中で円筒上層式土器を『花巻式土器』と命名しました。

 

花巻遺跡は大正から昭和初期において考古学界の代表的な遺跡でしたが、中谷治宇二郎が35歳の若さでこの世を去ると、『花巻式土器』という形式名も消滅してしまいました。

 

昭和60年と62年に黒石市教育委員会で花巻遺跡の発掘調査を行いましたが、調査の結果、竪穴住居跡1棟、土坑跡20基、石棺墓10基などが発見されています。縄文時代前期から後期にかけての大集落が存在していたと思われます。

 

石棺墓は非常に珍しい遺構です。石棺墓はその名のとおり石で造った棺桶ですが、青森県内では、青森市山王峠遺跡、稲山遺跡、平川市堀合遺跡、鯵ヶ沢町餅ケ沢遺跡、黒石市花巻遺跡で発見されているだけですが、最近、岩手県の湯舟沢遺跡でも見つかっています。

 

甲里見(2)遺跡 ~平安時代~

土馬(真上) 土馬(横向)

黒石市高舘に甲里見(2)遺跡があります。昭和63年に発掘調査を行いましたが、調査の結果、平安時代前期の竪穴住居跡3棟が発見されました。このうち1棟が焼失家屋で、カマドの中から土馬(どば)、手捏ね土器(てづくねどき)、勾玉(まがたま)が出土しています。これらの遺物は律令祭祀遺物(りつりょうさいしいぶつ)と呼ばれるものです。

 

奈良・平安時代において律令制が布かれると日常生活の不安と恐怖から魔除けや信仰が生まれます。それに伴い、いろいろな遺物が製作されます。たとえば、人面土器、人形(ひとがた)、鳥形(とりがた)、ミニチュア土器、斉串(いぐし)、ミニチュア竃(かまど)、勾玉などがあります。これまで東北地方からは律令祭祀遺物があまり出土していませんでした。それは、律令制が東北地方まで及ばなかったためと考えられていました。しかし、最近の調査で、東北北部まで律令制の影響が及んでいたことが解明されています。

 

この律令祭祀遺物の中で特に重要なものは土馬です。馬は大陸から渡ってきた動物です。馬は、水辺で飼われていたことから水神信仰と結びつき、以来、雨乞いの神様として崇められていました。また、馬は貴人の乗り物であることから、死者を天へ運ぶ伝馬や、それから派生して疫病神を乗せる物として信仰されるようになりました。

 

焼失家屋の出火原因は主に焼き討ちの場合があります。しかし、甲里見(2)遺跡から検出された焼失家屋からはカマド周辺の律令祭祀遺物以外に家財道具は発見されませんでした。また、家屋の柱も発見されていません。このことから竪穴住居跡の出火の原因は、自ら火を放った可能性があります。それは、土馬が出土していることから竪穴住居跡に住んでいた古代人が疫病にかかり、それが伝染しないようにカマドの中に律令祭祀遺物を放り込み、火を付けたものと考えられます。

 

青森県で土馬が出土しているのは甲里見(2)遺跡と八戸市岩ノ沢平遺跡の2遺跡だけですが、青森県にも律令制が及んでいたことが解ります。

一ノ渡遺跡 ~縄文時代後期~

縄文時代後期(約3800年前)になると東日本を中心に『巨石文化』が栄えます。ストーン・サークルと呼ばれるもので、青森市小牧野遺跡、弘前市大森勝山遺跡、秋田県鹿角市大湯環状遺跡が有名です。最近の発掘調査で平川市太師森遺跡、滝ノ沢村湯舟沢遺跡、北秋田市伊勢堂岱遺跡なども発見されています。これらの遺跡の特徴は、大きな石を直径20~30メートルの範囲で環状に並べていることです。縄文人が川原から石を運び、長い時間を費やして並べていくことは、この時代には大事業だったと思われます。そのため、このようなストーン・サークルを記念建造物(monument)と呼ぶ考古学者もいます。

 

昭和57年の浅瀬石川ダム建設に伴い、一ノ渡遺跡の発掘調査が行われました。調査の結果、102基の配石遺構が発見されました。しかし、配石遺構の並び方は不規則です。それぞれの石の並び方から配石遺構は組石、列石、集石、立石に区分できます。組石遺構は2基発見されていますが、2基とも長軸15.0メートル・短軸5.0メートルの長方形の範囲に、石を並べていくもので全体的に水平が保たれるように構築しています。うち1基の組石の底面から土坑跡が発見されています。組石の構築目的は解りませんが、祭壇として使用されたと考えられます。立石遺構は3基発見されています。3基とも比較的大きい石と棒状の石を組み合わせて並べたものです。その並び方はストーン・サークルのミニチュア版です。列石と集石は、比較的小さい石を一列に並べたり、また、不定形に並べたものです。これの構築目的は解っていません。

 

これらの遺構の外に、貴重な遺物が出土しています。ヒスイ製の硬玉製大珠(こうぎょくせいたいじゅ)と呼ばれている装飾品です。形がカツオ節に似ていることから『鰹節形大珠』とも呼ばれています。この大珠には紐を通す穴が開けられており、首飾りとして使用されたものです。大珠に使われたヒスイの原産地は新潟県青梅町であることが判明しましたが、交易ルートや流通機構については、まだ解明されていません。