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市指定有形文化財

浄仙寺仁王像(じょうせんじにおうぞう)

所在地 黒石市大字南中野字黒森下
指定年月日 昭和59年10月12日
所有者 浄仙寺

 

浄仙寺山

阿形(密迹金剛像)

吽形(那羅延金剛力士像)

 

黒森山の山腹にある浄仙寺の山門前に、一対の仁王像が建てられている。向かって右側が阿形(あぎょう)で、金剛杵を持ち仏教を守護する密迹金剛像(みつじゃくこんごうぞう)である。左側が吽形(うんぎょう)で、悪を排し善を守護する那羅延金剛力士像(ならえんこんごうりきしぞう)である。阿形・吽形の2体とも杉材を使用している。


胎内銘によると、製作者は日浪村の奈良喜世吉で、元治2年(1865)、発願者である乳井村(現・弘前市)の工藤丹十郎が同村の福王寺(現乳井神社)に寄進したものである。


しかし、明治初年の神仏分離令で同じ建物に神仏を祀ることが不可能となり、福王寺では仁王像を寄進者の工藤丹十郎に返却したものと思われる。そして、明治5年(1872)に仁王像と山門が浄仙寺に移され現在に至っている。

藩祖信英公書状(はんそのぶふさこうしょじょう)

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 昭和61年1月7日
所有者 黒石市

 

公書状

 

この書状は、黒石初代領主・津軽信英(のぶふさ)が、江戸で公務を執っていた時に書かれたもので、正保〜承応年間(1644~1654)のものと考えられる。縦15.3センチ、横44.6センチの和紙に墨書したもので、掛軸に装丁されている。


書状の内容は、弘前藩家老・傍嶋太兵衛(そばじまたへえ・信英の妹である松姫の夫)が、江戸在府中の信英に塩鴈(えんがり・塩漬された雁)を一羽送ったことに対する礼状である。現存する信英直筆の書状は本状を含めて3通のみで、貴重である。

藩祖信英公書状(2)

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 昭和61年8月7日
所有者 黒石神社

 

公書状2

 

この書状は、明暦2年(1656)11月21日、弘前藩4代藩主津軽信政の後見役として江戸神田邸に住んでいた信英(のぶふさ)が、弘前藩家老・津軽百助(ももすけ)に宛てた親書で、明治12年(1879)11月8日、黒石藩家老・境形右衛門(さかいぎょうえもん)の子孫である貞太郎が黒石神社に奉納したものである。


書状には、信政が4代将軍家綱との謁見を無事済ませたことや賄金三千両の借用、知行目録の不備是正、切支丹制札のことなど政務に関する事項が細かく記されている。信政の後見者として、分知後の信英がたいへん気を遣って政務を執っていることが窺え、分知当時の弘前藩の様子を知ることができる貴重な史料である。

木庵性瑫像(もくあんしょうとうぞう)

所在地 黒石市大字温湯字鶴泉
指定年月日 平成4年3月6日
所有者 薬師寺

 

木庵性瑫像

 

延宝2年(1674)、喜多元規(きたげんき)による作品で、木庵の自讃がある。元規は、黄檗(おうばく)肖像画の様式を定めたともいわれ、黄檗画を代表する作家である。彼の作品は、九州や関西に多く残っているが、北日本では唯一の作品である。


一方、描かれている木庵性瑫(もくあんしょうとう)は、中国福建省泉出身の黄檗宗の僧侶である。明暦元年(1655)に来日し、寛文4年(1664)、黄檗宗の開祖である隠元(いんげん)が京都に開山した萬福寺を継いだことで黄檗第2代となった。


木庵は、隠元・即非(そくひ)とともに黄檗の三筆と称され能筆で有名であるが、墨画にも優れ洒脱な画は高く評価されている。

日蓮上人断簡(にちれんしょうにんだんかん)

所在地 黒石市京町
指定年月日 昭和61年1月7日
所有者 妙経寺

 

日蓮上人断簡

 

日蓮上人の断簡は、日蓮の思想・信仰・行跡等を日蓮自身が叙述し、弟子や信者に与えた書き物である。その内容は、著作・消息類、備忘録等がある。全国の信者が護符として持ち歩いたという。


裏面には寄進者である長谷川半十郎の名が記されている。どのような経緯で入手したかは不明であるが、妙経寺の過去帳などから宝永元年(1704)〜亨保12年(1727)に入手し、妙経寺に寄進したと推定される。


この断簡は、弘安年間(1278〜87)の作といわれており、貞享元年(1684)にある僧侶により真筆と鑑定されたことが、裏書きに記されている。
日蓮聖人の断簡は県内唯一であり、宗教史解明に貴重なものである。

隠元隆琦像(いんげんりゅうきぞう)

所在地 黒石市大字温湯字鶴泉
指定年月日 平成4年3月6日
所有者 薬師寺

 

隠元隆琦像

 

年代および製作者は不明であるが、中郷村飛内(黒石市飛内)在住の高木仁左衛門が薬師寺に寄贈したものである。


本資料は黄檗(おうばく)肖像画の系統を承継するもので、同じく黒石市文化財である木庵性瑫像(もくあんしょうとうぞう)に比べ和様化しており、彩色等は木庵像より優れている。


描かれている隠元隆琦(いんげんりゅうき)は、中国福建省出身の僧で、黄檗宗の開祖である。承応3年(1654)に来日し、山城国宇治郡大和田(京都府宇治市)に黄檗山萬福寺を建立した。

法眼寺開山堂(ほうげんじかいざんどう)

所在地 黒石市大字山形町
指定年月日 平成4年7月7日
所有者 法眼寺

 

法眼寺開山堂

 

法眼寺境内の東側にある小規模な方形の建造物は、法眼寺の開山者である南宗元頓(なんしゅうげんとん)を祀った開山堂である。


開山堂は切延石の基礎に土台を廻してあり、粽(ちまき)付き円柱を立て、腰長押(こしなげし)・内法長押(うちのりなげし)を打ち、腰貫(こしぬき)・内法貫(うちのりぬき)を通し、頭貫(かしらぬき)に木鼻を出し、台輪を廻している。正面に両開桟唐戸を吊るし、他の三方は壁面を構成する。


内部は土間床の一室で、その中央には南宗元頓の墓石である高さ60.5センチの卵塔1基が安置されている。卵塔の塔身正面には南宗元頓和尚の名が、裏面には和尚が没した正徳3年(1713)の年号が陰刻されており、開山堂は、法眼寺境内の中でも最古の建造物であると推定される。

法眼寺山門(ほうげんじさんもん)

所在地 黒石市大字山形町
指定年月日 平成4年7月7日
所有者 法眼寺

 

法眼寺山門

 

法眼寺の山門は、寛保元年(1741)に建立されており、本堂や鐘楼堂より古い。


親柱を互平(長方形)の鏡柱として、四脚門の形態をとり、前後の控柱(ひかえばしら)とは2本の貫で繋がれている。軒は一軒の疎垂木(まばらたるき)であるが、正面および背面の中央に軒唐破風(のきからはふ)を付けている。


山門は、先年の修理によって基壇や基礎部分がコンクリートになっており、扉が取り払われ、蹴放も外されている。しかし、基本的な軸組や細部の様式には建築年代がよく表わされており、小規模で簡素な造りであるが、姿の美しい山門である。

鳴海家住宅(なるみけじゅうたく)

所在地 黒石市大字中町
指定年月日 平成10年4月10日
所有者 個人

 

鳴海家住宅

 

鳴海家は、文化3年(1806)の創業以来約200年の伝統を誇る酒造店である。屋号は『稲村屋』を名乗る。


主屋の建築年代は不明であるが、1700年代後半の築造と思われ、中町に面した側には「こみせ」が設けられている。主屋は敷地の南西の角に置かれている。その南側は三間幅の通り土間で、中町への出入り口には吊り上げ式の大戸が現存している。また、主屋からは登録記念物に登録された大石武学流庭園を望むことができる。


嘉永5年(1852)の『屋敷間数歩割下帳』の記録によると、中町の稲村屋文四郎宅について「間口十一間五尺、奥行四十三間三尺五寸、末幅三十一間」という記録があることから、藩政時代から大規模な屋敷を構えていたことがわかる。


鳴海家住宅は、200年以上経過する建築物でありながらあまり改築、改修をされずに今日に至っており、伝統的な店構えを守っている。また、「こみせ」を完備し、町並みの景観にも非常に重要な役割を果たしている。

剣(つるぎ)

所在地 黒石市大字山形町
指定年月日 平成11年1月5日
所有者 法眼寺

 

剣

 

この剣は、法眼寺に安置されている中野不動明王が所持しているもので、文政3年(1820)に石川忠右衛門と忠兵衛が寄進したものである。刀身には「奉納中野不動明王御寶前」と彫刻されている。


もともと中野不動明王は、黒石5代領主・津軽著高(あきたか)の命により作られた一木三体の不動尊のうちの一つで、中野神社に安置されていたものである。しかし明治維新の神仏分離により法眼寺に移され、現在に至っている。


この剣は、江戸時代の名刀匠である細川正義2代目の作である。正義の剣は珍しく貴重なものである。

御神刀(ごしんとう)

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 平成12年3月4日
所有者 黒石神社

 

御神刀

 

黒石神社に納められているこの太刀は、元幅が2.8センチと広く、先中が1.6センチと細い。棟は山形の背を持つ庵棟で反り高く、切先は猪首風の小切先である。茎は18.8センチで、茎尻は刃上がり一文字をしている。


身幅の細さに対する腰元の広さと強い踏張り、腰方の深い反りと真直ぐな先など古備前の特徴をよく表わしている。鎌倉時代中期から後期の作品であると思われる。


本来は、安政5年(1858)12月、津軽承叙(つぐみち)が黒石4代藩主として迎えられた際に、弘前11代藩主・津軽順承(ゆきつぐ)から拝受したものである。その後、明治政府により帯刀が禁じられたため、承叙によって黒石神社に奉納されたものである。


この刀身は、県重宝に指定されている「金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵」に納められ、 黒石神社の御神刀として伝わるものである。残念なことに、再刃(焼けた刃)であったため県の指定からは除かれたが、財団法人日本美術刀剣保存協会による鑑定が行われた際には、貴重刀剣と評価されている。再刃でなければ国宝級ともいわれる優れたものである。


この太刀の作者は、平安時代の刀工・正恒で、刀工の数が非常に多い古備前の中でも特に有名な人物である。

釣燈籠(つりどうろう)

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 平成12年3月24日
所有者 黒石神社

 

釣燈籠

 

この釣燈籠は、黒石初代領主・津軽信英(のぶふさ)の13回忌にあたる延宝2年(1674)に奉納されたもので、当時信英がいかに敬われていたかがわかる。寄進者は益子彦右衛門と長澤角兵衛で、黒石領の家臣であったとみられる。


県内に現存する釣燈籠では、永正14年(1517)の銘をもつ弘前市百沢の岩木神社所有のものがもっとも古く、県重宝に指定されている。黒石神社の釣燈籠は、江戸時代中期の作であり、これに次ぐ古いものだと思われる。

石燈籠(いしどうろう)

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 平成12年12月6日
所有者 黒石神社

 

 

信敏建立の石灯籠

 

 

著高建立の石灯籠

 

石灯籠は、黒石領2代目領主・津軽信敏が建立した1対2基と、5代目領主・津軽著高(あきたか)が建立した1対2基の計2対4基がある。4基とも保存状態は良好である。


信敏が建立した石燈籠は、延宝2年(1674)に信敏の父である信英の13回忌に奉納されたものであり、この時に釣燈籠(市指定有形文化財)と手水鉢(ちょうずばち)も奉納されている。また、著高が建立した石燈籠は、信英の100回忌にあたる宝暦11年(1761)に奉納されたものである。


これらの石燈籠は信英にかかわる貴重な資料であるが、特に信敏建立の石燈籠は、元禄時代以前の歴史資料としての価値が高い。

駕籠(かご)

所在地 黒石市大字山形町
指定年月日 平成12年12月6日
所有者 法眼寺

 

駕籠

 

宝巌山法眼寺には、全体が黒漆塗りで4人担ぎの乗り駕籠がある。製作年代については不明であるが、法眼寺の『仏具施主帳』(江戸時代中期頃)に「享保15年(1730)乗籠一張黒石加藤権七」という記載があることから、加藤権七が寄進したことがわかる。加藤権七は、法眼寺の開基に尽力した加藤武助・勘兵衛(初代)と関連のある人物と思われる。


当時、法眼寺の住職が高級武家の待遇を受けたということから、この駕籠は格式の高い乗り物として伝えられている。また、寺伝によると、この駕籠は公用の際に使用されていたという。


木部の損傷部と小窓の周囲の畳表を張った部分の虫喰いのため若干の小修理を加えてはいるが、本体は伝来のままで現形を保持している。

津軽信敏建立の石碑(つがるのぶとしこんりゅうのせきひ)

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 平成17年3月14日
所有者 黒石神社

 

黒石2代領主・津軽信敏が父・信英(のぶふさ)の死後1年目にあたる寛文3年(1663)に、信英の墓として建立したもので、黒石神社の御廟の中に建っている。

藩祖信英公頌徳碑(はんそのぶふさこうしょうとくひ)

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 平成17年3月14日
所有者 黒石神社

 

黒石初代領主津軽信英の御廟の中に建立されている石碑である。正面、側面に銘文が刻まれている。黒石3代領主津軽政兕(まさとら)が、信英の50年忌にあたる正徳元年(1711)に建立したものである。信英の事績が詳しく刻まれた石碑で、信英の業績を知ることができる貴重なものである。

黒石神社の神門(くろいしじんじゃのしんもん)

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 平成20年5月8日
所有者 黒石神社

 

黒石神社の神門

 

藩政時代の黒石陣屋跡にあった門で、明治12年(1879)に現在の場所に移築され、黒石神社の神門となった。


神門は薬医門形式で建てられており、扉および蹴放はないが、黒石神社に神門の一部と思われる扉2枚が保存されている。神門の柱上部の冠木には、扉軸を繋ぐための「ほぞ」が見られることから、建築当初は扉・蹴放があり、移築時にそれらを外したと考えられる。


黒石神社神門は、黒石陣屋に関係する建造物の中で現存する唯一のもので、保存状態もよく、藩政時代の建築文化を知る上で貴重な遺構である。