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県指定文化財

県重宝 法眼寺本堂(ほうげんじほんどう)

所在地 黒石市大字山形町
指定年月日 平成5年4月16日
所有者 法眼寺

 

法眼寺外観

 

法眼寺は、延宝8年(1680)、勢州阿坂(三重県)出身の南宗元頓によって開山された黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の寺である。寺は最初、温湯村に建立されたが、元禄4年(1691)に黒石3代領主津軽政兕(まさとら)の命により現在の山形町へ移された。以降、領(藩)主の祈願所として寺領が与えられた。


本堂は、寛保2年(1742)の火災で焼失し、また宝暦9年(1759)と明和3年(1766)の大地震で破壊された。明和6年(1769)に仮本堂として再建立したのが、現在に至っている。


本堂正面には、向唐破風(むこうからはふ)の向拝玄関があり、正面の妻飾りは三重虹梁大瓶束(さんじゅうこうりょうだいへいづか)からなる。この妻飾りの架構は、大きな茅葺屋根とともに壮大である。内外陣を区切る太い柱は角柱で、左右に大虹梁が渡され、木鼻を出し、2段の出三斗(でみつと)と蟇股(かえるまた)を置く。また、内陣(ないじん)を取り囲むように三方に虹梁を架け渡し、それぞれに蟇股を置く。法眼寺の本堂では、虹梁が内陣廻りに架け渡されているのみであり、円柱を一本も用いていないが、これは仮本堂として建られたため、若しくは方丈型本堂の古い形式が残されているためと考えられる。いずれにせよ、簡素な造りながら豪壮な構えの本堂であり、細部に年代の特徴がよく表れている。

県重宝 法眼寺鐘楼堂(ほうげんじしょうろうどう)

所在地 黒石市大字山形町
指定年月日 昭和53年8月24日
所有者 法眼寺

 

鐘楼堂外観

 

法眼寺の境内にある鐘楼堂は、延享3年(1746)に、黒石津軽家や檀信徒の喜捨によって建立された。法眼寺は黄檗禅宗であるため、本堂・鐘楼堂とも県内でも珍しい「唐風造り」である。


全体的に簡素な造りであるが、近世寺社の特徴を示している ことから、昭和53年に県重宝に指定された。


また、鐘楼堂内部には梵鐘が吊るされているが、これは法眼の位を持つ棟方志功によって寄贈されたものであり、檀信徒の助力もあって設置されたものであるという。

県重宝 黒石市消防団第三分団第三消防部屯所

所在地 黒石市大字甲徳兵衛町
指定年月日 平成15年7月14日
所有者 黒石市

 

第三消防部屯所外観

 

第三消防部屯所は、大正13年(1924)に建築された木造の2階建て建物である。建築当時は、1階に蒸気ポンプを格納し、2階前方にバルコニーを設けていた。しかし、昭和3年(1928)にノーザン式消防自動車の配備に伴い、1階部分を増築したためバルコニーは取り外され、現在は廊下になっている。また、2階部分前方に火の見やぐらとして設計された望楼を3段載せており、全体として5階建ての建物になっている。


1階は消防車を入れておく空間を大きく取り、2階は、18畳間と12畳間の部屋が縦列に並んでいる。当時は結婚式や会合などが行われ、集会所として利用されていた。


黒石市には望楼を載せた消防屯所が6箇所あり、一番古いのは元町の第二部屯所であるが、本件は造形的にも優れ、保存状態も良好である。

県重宝 金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵(きんなしじぼたんもんちらしまきええふたちこしらえ)

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 昭和49年10月14日
所有者 黒石神社

 

刀

 

黒石藩4代藩主・津軽承叙(つぐみち)が明治時代に黒石神社に奉納した刀で、現在は神社の御神刀となっている。


承叙は嘉永4年(1851)に黒石藩4代藩主になっており、その際に弘前藩11代藩主・津軽順承(ゆきつぐ)から、刀・甲冑・その他種々の賜物があったことが記録されているが、この中にこの太刀があったとみられる。


太刀の柄には鮫の皮が張られ、鞘全体は、金粉を蒔いた透明な漆が塗られた金梨地の上に、黒石藩の家紋である五葉の牡丹紋が施されている。このことから、「金梨地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵」と呼ばれており、美術工芸品として優れていると評価されている。


なお、鞘に納められている刀身(市指定有形文化財)は、再刀であることから県重宝に指定されなかったが、財団法人日本美術刀剣保存協会による鑑定では貴重刀剣と評価されている。

県重宝 明暦二年津軽十郎左衛門拝領山形黒石領外浜平内領検地帳(明暦の検地帳)

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 平成12年4月19日
所有者 黒石市

 

検地帳

 

『明暦の検地帳』は、明暦2年(1656)、黒石初代領主・津軽信英(のぶふさ)が弘前藩から5,000石を分知された際に、弘前藩によって行われた検地の結果が記されたものである。弘前藩は信英に黒石領2,000石、平内領1,000石、上州勢多郡(群馬県)2,000石を分知しており、そのうちの黒石領と平内領の検地を実施している。


冊子は全部で22冊あり、うち7冊が黒石領、15冊が平内領である。検地帳には、明暦年間における黒石領内の地名、作人名、耕作面積、作物名などが詳細に記録されており、黒石が分知した当時、米、粟、稗、そば、大豆、小豆、大根、なす、油、麻、たばこ、麦 あい、いもなどを作付していたことなどが判っている。


このように、明暦の検地帳は、黒石領が開町する当時の史的事実を記述しているもっとも貴重な資料である。また、『貞享の検地帳』よりも約30年前に作成されたもので津軽領内最古の検地帳である。

県無形民俗文化財 大川原の火流し

所在地 黒石市大字大川原
指定年月日 昭和58年1月20日

 

火流し様子

 

大川原の火流しは、毎年8月16日の夜にアシガヤで作られた3隻の舟の帆柱に火をつけて中野川に押し流し、その燃え具合で次の年の豊凶を占う伝統行事で、約650年前から行われているという。


この伝統行事は、北朝方に追われて黒石の大川原に住みついた後醍醐天皇の第8皇子宗良親王(むねながしんのう)の子孫が、戦死者の慰霊のために始めた「精霊流し」が原形だといわれている。ところが最近の調査では、大川原に住みついた落人は、信濃大河原一帯を領有していた豪族である香坂高宗の子孫であったことが判っている。


大川原の火流しは数百年もの間、伝統行事として受け継がれてきたという点で文化財としての価値が高いことから、昭和58年に県無形民俗文化財に指定されている。

県無形民俗文化財 黒石ねぷた

所在地 黒石市大字市ノ町
指定年月日 平成5年4月16日

 

黒石ねぷた写真

 

ねぷたは「ねむりながし」の習俗が風流化したもので、東北各地にはこのような災厄を払い、無事息災を祈る行事が多く伝わっている。青森県内では、青森市の『人形ねぶた』、弘前市の『扇ねぷた』がよく知られているが、『黒石ねぷた』には、人形ねぷたと扇ねぷたの両方が存在する。特に、黒石市の人形ねぷたには、5段からなる高覧上に人形の本体を載せ、さらに見送り絵が付いているという特色がある。


『黒石ねぷた』の起源は不明であるが、天明6年(1786)以前に運行していたことが判っている。現在では、子どもを中心とした世代交流の場であり、市民総参加の祭りとして盛り上がっている。

県無形民俗文化財 上十川獅子踊(かみとがわししおどり)

所在地 黒石市大字上十川
指定年月日 平成11年7月23日

 

上十川獅子踊は、旧暦4月8日に長谷沢(ながいざわ)神社で行われる獅子起こしから旧暦8月15日に上十川(かみとがわ)八幡宮で行われる獅子納めの期間、上十川地区において踊られている伝統芸能である。


獅子踊りは、囃子に笛奏者3名、太鼓奏者2名、手平鉦奏者3名(うち1名は歌掛けを兼ねる)、踊り手はオガ獅子(案内者)、牡獅子(小)、牡獅子(中)、牝獅子(大)、山持ち各1名の総計13名で構成されており、現在行われている演目は、街道渡り、門の切り、追い込み、橋掛け、女獅子競い(相撲)、十五夜、松山、山掛けがある。


上十川獅子踊の創始年代は定かではないが、伝承によると、天正12年(1584)に浅瀬石に住んでいた品川六郎右衛門という人物が、浅瀬石城主の求めに応じて獅子一揃いを贈り、千徳家のかかえ獅子として舞を完成させたことから始まったという。千徳家が滅亡した後は村人によって伝承されたが、野際村に移された。しかし野際村では獅子踊りを継続していくことが困難となったため、古い獅子を上十川村に埋めてしまった。ところがその後、村全体で悪疫が流行したことから、村人は獅子を埋めたために悪疫が発生したと考え、獅子を再び掘り起こして獅子舞を踊ったところ、猛烈な悪疫を払い除くことができたという。それ以来、上十川獅子踊は凶事退散の舞として受け継がれている。

県天然記念物 妙経寺のカヤの木

所在地 黒石市京町字寺町
指定年月日 昭和63年10月25日
所有者 妙経寺

 

カヤの木 写真

 

妙経寺のカヤの木は、樹齢約700年、樹の高さ19.5m、幹の周り6.55mである。碁盤や将棋盤として貴重価値の高いカヤの木は、北方では育たないとされている。しかし、この地方では古くから天台密教が栄えており、各地を巡回した修験者がカヤの木の苗木を妙経寺に植えたものと言われている。


本県では三戸郡南郷村の高松寺(こうしょうじ)のカヤの木が有名であるが、妙経寺のカヤの木はこれより200年以上古い樹木である。

県天然記念物 中野神社の対植えのモミ

所在地 黒石市大字南中野字不動館
指定年月日 平成20年4月25日
所有者 中野神社

 

対植えのモミ 写真

 

中野神社随身門前に2本のモミの木が対になって植えられている。


このモミの木はマツ科モミ属のモミで、樹齢約200年である。随身門向かって右のモミは、樹高38.4m、幹周3.95m、左のモミは、樹高33.6m、幹周3.43mである。心梢の生長が止まり、樹形は広い卵状円錐形となっている。


モミの樹齢は100〜150年と比較的短命な樹木であるため、全国的に巨木はあまりみられない。しかし中野神社のモミの木は低地に生息する樹齢200年の老木であるが、未だ健在で貴重である。

県天然記念物 薬師寺の石割カエデ

所在地 黒石市大字温湯字鶴泉
指定年月日 平成26年4月18日
所有者 薬師寺

 

石割カエデ 写真

 

薬師寺境内東側に岩があるが、その岩を割って1本のカエデの木が生えている。巨木ではないが、カエデは岩上を跨るかのように生えており、その風貌が岩手県盛岡市にある「石割桜」に似ていることから、「石割楓」の名がついた。


このカエデは、カエデ科カエデ属のオニイタヤカエデで、樹齢は4〜500年、樹高11.8m、根元幹周6.1mを計測する。