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りんご復興の大号令者 渋川 伝次郎(しぶかわ でんじろう)

 協会の性格とその果たすべき役割は、三角形の三つの頂点を槍(やり)のように使うことだという。一本の槍は、絶えず法律や政策を勉強して、国や県に対して具体的な建策をすることである。もう一本の槍は、りんごづくりが勉強をし、他産業の従事者に辱し( はずか)められることのないよう、ものの考え方、見方をしっかり持つということである。最後の槍は共同で、規模の小さいりんご農家は、今の世の中の仕組みの中では生きていけないことを自覚して、協力し合うということである。
こういう目標で事業をやっていく限り、協会は存在しているだけで、生産者が生産者を守る、実力のある抵抗団体になる。行政の下請けの外郭団体でもなければ、行政に圧力をかけて何かを得ようという団体でもない。りんごづくりによるりんごづくりのためのりんごづくりの団体、これが抵抗団体としての協会のあり方であることを伝次郎は身をもって示した。
 ある時は県知事の無策を面と向かってなじり、ある時は奉仕の精神を忘れた公務員にカミナリを落し、協会の財政確立のため「人を見たらカネとれ。」と公言して会費制度を確立した。「百姓をバカにするものがあれば必ず槍を突っこんだ」という個人の信条を、協会の精神に育てあげた。
 「渋伝のカミナリは上へ落ちる」といわれた。つまり、権力をもつ者に向けられることが多かったが、それが私憤(しふん)でないところに「渋伝先生」らしさがあった。テーブルを叩(たた)いて、「お前みたいなのは辞めてしまえ!」と怒鳴って、一夜おいて後悔して、周りに手回しし、本人にも「辞めないでくれ」と手紙を書くようなこともしばしばであった。
 後始末に自ら走り回らねばならないのに、またやってしまうというのは、無私の公憤(こうふん)だからで、やられた方も私怨(しえん)として残ることはなかった。
 彼の活躍は単に大号令者であることに留(とど)まるものではなかった。剪定技術を理論的に解明して幾冊もの本を書き、歴史を大切にして史料収集から『青森県りんご発達史』全11巻刊行まで指導し、また社会教育の名講師として村々を回った。必ず要旨メモを準備したが、乗るタイプで、聴衆の反応によって大脱線するので大変な評判であった。
 官側も民間も、これだけの人を放っておくわけはない。東奥賞(1955年)、河北文化賞(1956年)、藍綬褒章(1958年)、県褒賞(1959年)、園芸学会功労賞(1973年)、勲五等瑞宝章(1977年)が与えられ、そして1988(昭和63)年、黒石市名誉市民に推戴(すいたい)された。
 「なに、時の運ですよ。回り番コみたいのもありますからね。」
 と本人は屈託ないが、これだけ受賞が重なったりんご人は他にない。

 (執筆者 斎藤康司)

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