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りんご復興の大号令者 渋川 伝次郎(しぶかわ でんじろう)

それは、いってみれば国家という重苦しいもののほかに、社会というものがあり、そこでは老若男女差別なく、その人間としての権利を尊重されるが、そのためにも人は個人として教養を身につけて真の豊かさを求めなければならない、といったものだったのだろう。
 伝次郎がそのことの大切さをただ心で思っているだけでなく、生活の上で実践したことがある。1927(昭和2)年春、彼は妻子を引き連れ家を解体して運んで、新城の淡谷悠蔵農園に移り住み共同経営を始めた。青森県の文芸復興期のリーダーとされていた淡谷のトルストイ信奉に共鳴して、利己を排し、協力し合う人間の真の生活を追求しようとしたのである。この共同生活は半年で解消することになるが、彼の純粋で一途(いちず)な生き方を伝えて余すところがない。
 生家の没落に加えて、青年期をこのように高価な―プラスの意味でもマイナスの意味でも―道草を食った伝次郎に、平坦な生涯があるわけはない。49歳で最後の俸給生活を終えるまで、実に10回職業を変えている。恐らく「岸藤のオンチャ(二男)なんぼ腰落ち着かねば」と笑われたり、嘆かれたりしたことがあったろうが、事実は、まことに充実した、着実に自分を大成させる道を歩いていたのであった。
 10回という転職に共通していることが二つある。
 一つは、すべてりんごに関係する仕事で、研究・指導・移出業者の立場での販売・生産者の立場での販売・加工開発販売とあらゆる分野を担当して、りんごのオールマイティー(なんでもできる)人間になったことである。
 二つは、短いもので1年足らず、長いものでも4年にすぎない在職期間であったが、必ず与えられた仕事に熱中して人の認めるところとなったので、転職の際は必ず就職を世話してくれる人が現われたということである。棒給から離れたときは住居を提供し、生活を見てくれるファンまで現われた。それは私心がなく、すべてをりんごの発展に捧げる姿が、人に感動を与えるからである。
県りんご協会を育てる
 県りんご協会は、会員が納める会費を主たる財源とする、他に例を見ない自主独立の生産者団体である。1946(昭和21)年創立であるが、これこそ渋川伝次郎がそのもてる思想、知識、経験のすべてを投じてつくったものである。もちろん多くの人たちの協力があったが、準備から結成までを指揮したのは彼であるし、結成後は実質的最高指導者として育成に当り、それを土台にして、県下りんご界に大号令を下したのであった。


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