ホーム文化財・遺跡>渋川 伝次郎(4/6)


りんご復興の大号令者 渋川 伝次郎(しぶかわ でんじろう)

 春4月になって通常の作業が始まると、りんご園はにぎやかになったが、若い支配人にはこれが又苦労であった。遠く黒石からの出作(でづくり)(他村にある田畑に出向いて耕作すること)であったから、小沢)、悪戸、下湯口といった周辺の集落には血縁も地縁もない。そういうところで季節によっては1日6、70人の人夫を集めなければならなかった。9.6ヘクタールといえば今でも指折り数えることができるほどの農家しか持っていない大きい面積である。それがまた南北に細長く、その距離は200メートルもあった。園地に凹凸があり、排水のため深い溝を掘ってあったから、人夫の中にはそこに隠れて骨休みしたり、中には袋かけをさぼって、渡された袋を土に埋めるようなことをするのもいた。若い支配人に、そういう人夫たちを手足のように動かす術があるわけはない。結局持ち前の大声で叱(しか)ったり励ましたりするほかなく、その声が下湯口まで聞こえてきたという伝説がある。実際風向きによっては聞こえたかも知れない大音声の持主でもあった。
 伝次郎はここで20歳になって兵役の義務を果たし、ここで新婚生活を送り、そして2人の子を得た。大きなりんご園経営が病虫害のまんえんで苦しくなっていたときであったが、一生懸命働いた成果はあがっていて、将来については少しも不安をもっていなかった。そこへ父藤之助が突然やって来て、「西園を閉める。黒石へ帰って東園の方をやってくれ。」と言われたときは、口もきけないほど驚いた。渋川家の多角経営がうまくいかなくなって、西園へこれ以上投資できなくなったというのである。日誌と記録は欠かさず記入していたが、肥料・農薬は黒石から届けられ、収穫したりんごは父が黒石へ運んでいった。
支配人といってもそれだけの存在でしかなかったのだ。伝次郎は悄然と(しょうぜん)して雪の宇和野を後にした。1923(大正12)年25歳の3月であった。6年前一人で赴任した彼に、今は前途を案じる妻と何事も知らない2人の幼児が従っていた。

大正の新しい思想の中で
 伝次郎が宇和野にいた間に、日本の社会は大きく変り、黒石もまたその流れの中にあった。すなわち第一次世界大戦で日本は高度の経済成長をとげたが、戦争が終わると不況がやってきて、多くの企業が倒産した。渋川家もその不況を乗りこえることができなかったのである。
 経済成長は、反面、国民の政治的、思想的自由への目ざめをうながした。後に大正デモクラシーと呼ばれる自由主義的、文化主義的風潮があふれ、伝次郎の友人たちも熱っぽく民本主義や社会主義を語り、小説や詩や短歌をつくっていた。生活の基盤がまだ安定せず、しかも2人の子の親になっていて、青春気分でいられる伝次郎ではなかったが、敏感な好奇心から北岡)義端(ぎたん)や柴田久次郎、境義雄といった文学青年、左傾青年の仲間に入っていった。宇和野で文芸雑誌「希望」を購読し、翻訳ものではトルストイやドストエフスキーなどを読み、日本のものでは徳富蘆花、倉田百三、蓮沼門三、西田天香といった教祖的な人道主義者の本に親しんでいた伝次郎には、すでに彼等と共通の基盤ができていたのである。

(4/6)
次のページへ

前ページへ戻る ホームページへ戻る