ホーム文化財・遺跡>渋川 伝次郎(3/6)


りんご復興の大号令者 渋川 伝次郎(しぶかわ でんじろう)

春や秋は学校の実習用温室が快適だった。夏はどんなに暑い日でも早朝の校庭の土や草はひんやりとしていた。冬は炊事場の大きな囲炉裏の傍(そば)にしゃがんだ。火種を灰の中に埋めてあるので暖かであった。
 級友は成績のよい勤勉な伝次郎を敬遠するようなことはしなかった。よき遊び仲間であったからだが、彼が小柄で痩(や)せた少年だったからでもある。みんなは「渋川」とは呼ばず「骨皮」と呼んだ。卒業時、彼は身長158センチ、体重49キロしかなかったのである。尋常小学校6年、高等小学校3年、農学校3年の時代だから18歳の年のことである。それが20歳のときには167センチ・60キロと大きくなっていた。渋川語録が一つ生まれた。「男は二十歳の朝飯前まで育(おが)るものだ。」
 
悲しい退場
 農学校を卒業した伝次郎は、黒石の実家で休む暇もなく、清水村のりんご園に移った。すでに剪定の作業は始まっていて、古くからの使用人仁作爺(にさくじ)さまの手ほどきで仕事をしなければならなかったのである。卒業記念に五所川原で買った鳥打帽をかぶり、母が作ってくれたふっちゃぎ(裾の横に切りこみをつけた短い着物)に、これも手縫(てぬ)いの股引(ももひき)をはき、その上に脚胖(きゃはん)をつけて藁(わら)くず(雪道用の藁で作ったスリッパ状のはきもの)をはき、その上に木靴(といっても木の箱)をはき、それを縄で何重にもしばったので、ぽかぽか足はほてった。汗をかいて帽子をとることが多く、いつの間にか帽子をかぶらなくなった。吹雪になってもかぶらないので、人夫たちは「渋川の空(から)頭」と呼んだりした。
 
りんご園には渋川西園という名がついていて、その作業日誌と経営記録をつけるのも伝次郎の役目であった。渋川家では山形村福民の興農会社解散で現物配当を受けたりんご園3ヘクタール余もつくっていて、これが渋川東園である。西園は確かに黒石の西だが福民は黒石の南である。黒石を中心に考えたのではなく、要するに東西にあるということだったのだろう。
  
 西園の所在地はくわしくは清水村宇和野(うわの)で1000ヘクタール余もある台地の西のはずれの方にあった。北西には岩木山がその中腹をせり出したように迫り、南東には久渡寺山が望まれたが、一番近い下湯口の集落でも1キロも離れていて、人の往来がないのが辛かった。特に青春多感の時期、黒石にはたくさん友達がいるというのに、ここでは一人の話し相手もないのである。ひとりでに手紙を書くことが多くなり、その返事を待ち焦がれる日が続いた。夜はランプのもとで本を読むしかなかった。

(3/6)
次のページへ

前ページへ戻る ホームページへ戻る