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りんご復興の大号令者 渋川 伝次郎(しぶかわ でんじろう)

優等生“骨皮(ほねかわ)”
 伝次郎は1898(明治31)年父渋川藤之助・母ゆみの二男として、黒石町前町7番地に生まれた。渋川家は黒石の旧家岸谷の筆頭分家だったといわれ、祖父伝蔵が商業を営んで大をなし屋号を岸藤といった。伝次郎が学校へ上がるころは魚問屋・藁工品(わらこうひん)移出業・旅館を経営し、前町の店(今のマルチ商会の辺り)は間口20間(36メートル)もあったという。

 祖父伝蔵は進歩的で器量(才能・徳性)の大きい人物で、明治時代の自由民権派と交わり、その縁でこの地方初の大りんご園「興農会社」の株主になり、その生産するりんごの販売を一手に引き受けていた。父藤之助も気迫のある人物で、遠く弘前の旧藩練兵場あとに開いた大りんご園に投資して、後に9.6ヘクタールを自ら経営することになった。当時、水田をたくさんもっている地主や大きい商人が、りんごに投資するのがはやった時代で、土地の安い中津軽郡清水村(現弘前市)や東津軽郡新城村(現青森市)などに黒石商人がたくさんりんご園を開いたものである。

 渋川家では長男伝之助に家業をつがせ、二男の伝次郎にりんご園をやらせることにした。だから伝次郎は五所川原町に開設された県立農学校に進学した。1913(大正2)年のことである。この年、新城村にあった県農事試験場を黒石町に誘致することになり、黒石にあった南郡立農学校舎をそれに当てるため、農学校は五所川原町にあった北郡立農学校に合併し、県立農学校となったものである。後の五所川原農学校である。
思いがけない学校の移転は、多くの生徒の運命を変えることになった。黒石ならば通えるが五所川原の寮に入るのでは経済的に困るという生徒がたくさんいた。それに、この1913年という年は米の大凶作の年で、五所川原へ行った生徒でもあとで退学する者が多く出た。
 伝次郎は父にいわれたという。
 「お前を学校にやるのに1町歩の水田のあがりをつぎこまねばならないのだから、しっかり勉強するんだぞ。」
 1町歩すなわち1ヘクタールのあがりというのは、10アール6俵の米がとれるとして、その小作米(現物でとる貸付料)は3俵、1ヘクタールでは30俵が学費・寄宿舎食費・小づかいなどにかかるという意味である。恵まれた少数のものだけが進学できたのである。
 伝次郎に父の心配は無用であった。生れつき優秀な頭脳に勤勉さを備えていた。農学校の3年間を1番でとおし、卒業式では臨席の県内務部長から銀時計を授与された。そのことについて伝次郎は「なあに、予習復習をきちんとやっただけのことですよ。」と簡単なことのようにいう。しかし、そのやり方は決して尋常(普通)でない。放課後は級友と楽しく遊び、勉強は早朝に起きてやったのである。

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