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日本初の女性生物学者 小川 文代(おがわ ふみよ)

この時、下田の臨界実験所にいた後輩がウンナ氏のメチレンブルー(塩化亜鉛を試薬として青い色を出す色素)を使用すると、従来一般的に行われていた銀で染めるより手軽ではっきり見えることを教えてくれた。この方法で救われた文代はさらに改良して永久プレパラート(顕微鏡観察用の標本)を作った。それは現在50年たっても色があせないで見られる。この染色法の優れている点は生きたままの材料を染め、その日のうちに標本に出来ることである。銀で染める方法では材料が死に、時間がかかり、白黒でしか出ない。当時のことを後年、次のように語っている。
 「これで今まで見られなかった神経系の状態が詳細に見え、全く寝食しんしょくを忘れて神経の未知の世界を追求しました。残念なのは今のように写真技術が進んでいなかったので、写真に撮り難く、図に書くより仕方ありませんでした。そして1938(昭和13)年に12年間大学院で研究したミミズの成長にともなう神経系の変化をまとめて提出したのが学位論文となりました。」
 文代はこの神経細胞の数量的観察で、ふ化の後、消化器の神経細胞が増えないこと、生殖器のそれは4週目までに2倍に増え、それ以後は余り増えないが神経細胞は他の器官より多いこと、そしてもっとも著しく増加するのは彼女が特別神経細胞と仮称したミミズの脳にある細胞群であることを発見した。この仮称の細胞群については世界でも気づいた学者がいなかった。
 小川文代の研究成果は現在も世界中の動物学の学術書に引用されている。
 1938(昭和13)年1月、夫の小川鼎三が合衆国で研究を深めることになった時、文代も渡米し、ノースウェスタン、エール両大学で研究生活を続けた。
エール大学の大学院にいた時、エビの神経を研究していた学生に得意のウンナのメチレンブルー染色法を教えてくれと頼まれたエピソードもある。しかし8月、長男出産のため帰国した。
 東京へ移住してからは徳川生物研究所で研究活動を続け、1944(昭和19)年『みみずの観察』(創元社)を出版した。
 戦後は共立女子大学家政学部教授となり、国際大学婦人協会の副支部長や日本家政学会会長となって世界大会などにも出席してわが国の女性の地位改善のために尽くした。文代は戦後の日本女性について次のように語る。
 「男の人は、戦後に婦人が参政権を得てから、どのように日本の政治が変ったと思っているんでしょうか。私は、婦人参政権をたいした努力なしに得たため、かなり不都合なことが多いと思うんです。まあ、婦人を念頭において選挙が行われるようになったこと、婦人の政治への関心が高まったということはあるでしょうけど。」
「女だけの学校しかないと、紫式部のような才能ある女性を、制度のため伸ばす機会を奪って気の毒ですよ。」
(青森県の女性に言いたいことは)「米、りんごなど産物は多いけど、金の使い方に無駄が多いのですネ。私は漬物はほめられるんですョ。14、5歳頃が家庭における技術教育のヤマです。女は家の暮らしをもっと合理的にしなきゃ。」

 (執筆者 稲葉克夫)

(付記)小川文代さんは、平成5年、91歳で天寿を全うされました。(合掌)

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