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日本初の女性生物学者 小川 文代(おがわ ふみよ)

 小川文代も
「終戦まではいくら成績がよくても、官立(国立)では女性に助手のポストを与えなかった。」(中略)「東大に入りたいと思っても入れないし、旧制高校からの志願者が無い時だけ、二次募集の形でとったものです。女性は憤慨して浜口内閣に私立大学一つでもいいから、門戸を解放してくれって請願したものです。」
と女性差別を実感こめて語っている。
 恩師から当時、高等教育機関として唯一、女性に門戸を開いていた東北帝大理学部を紹介された文代は悩んだ。それは受験対策のことである。
 「生物学はともかくとして語学は旧制高校生とは格段の差がありますので、まず官立弘前高校のドイツ語の先生に手ほどきをして頂き、のちになって受験には外国語は英語でよいとのことでしたので、さらに高校の英語の先生に英作文を教わることに致しました。しかし何分にも教鞭の片手間なので自信がなく、落第したら東京の予備校にゆくつもりでした。幸い入学出来た時はうれしくて夜も眠れなかったことを覚えております。」
 1925(大正14)年の東北帝大理学部生物学専攻の入学生は12名で、その中に小川文代ともう一人の女性がいた。同級生の植木忠夫によると、
「石原文代さんは、長ソデを風になびかせながら、編上げの靴をはいて廊下を歩く姿からミス金魚と呼ばれた。」、「大学の共学は、常に和やかで正しいエチケットが守られ、クラスコンパのおやつは、女子の“オサツ”との所望により、風呂敷をぶら下げて焼イモ屋の行列に角帽姿で並んでいる私を女房にみつけられて困ったこともありました。」
と語る。

 石原文代はこの植木の中学時代からの友人である小川鼎三おがわていぞうと結ばれる。小川はその頃東北帝大医学部で解剖の助手をしていた。結婚式は1928(昭和3)年4月で卒業直後のこと、文代27歳だった。
 文代は結婚について次のように語っている。
 「女高師を卒業し、教職について24歳になっておりましたから、また大学に入ることに親類の者は反対しましたが、両親が賛成してくれました。かねて一生台所だけの生活はしたくないと考えておりましたので、結婚は度外視しておりました。たまたま植木さんの紹介で、勉強させてくれるというので、当時医学部の解剖かいぼうの助手をしていた小川と結婚することにいたしました。しかし、実際には家庭の雑事は存外多彩ぞんがいたさいで困難なものでした。けれども社会には多くの家庭持ちの女教師のあることを考えるといかにも意気地のないことと思い、両立するように努力いたしました。それでも子供のない間は比較的余裕がありましたが、子供が生まれてからは全くのお手あげで、大学院をやめようかと考えたほどでした。」

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