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日本初の女性生物学者 小川 文代(おがわ ふみよ)

 このような環境に育った文代には当時の女の生き方、求められる良妻賢母型は耐えられなかった。結婚はしてもしなくてもよい。主婦業だけが女の天職だとは思わない。暗い台所でぬかみそ臭く一生過ごすのはごめんだ。何でもいい、自分を生かす人生を送りたい。木綿の筒袖つつそで筒袖(つつそで)に紫色のはかま。黒い筋がわずかに県立第一高等女学校のプライドを示し、雨傘も黒一色という地味な、封建性の濃い田舎の女学生の小さな胸の中に大正デモクラシーの波濤はとうが大きくうねっていた。この弘高女では文代が入学するわずか1年半前、青鞜社せいとうしゃのメンバーというので若き神近市子かみちかいちこが追放された学校である。青鞜社グループは平塚明子ひらつかはるこ雷鳥らいちょう)を中心とし、婦人の解放を叫び、新しい思想を紹介、実践して名高い。
 幸い、父の石原弘はどういうわけか女子高等師範学校に憧れており、女高師への進学なら許可するといっていた。生物の好きな文代は理科の専門課程が他の女子専門学校になかったので奈良女高師にすすんだ。女高師は東京(現お茶の水女子大)と奈良(現奈良女子大)の2校しかなかったが、奈良女高師は各県から1〜2名、推薦書類と面接で入学を許可していた。
 女高師4ヵ年間も優秀な学生であった。4年生の時、文代は一生の幸せを予告する運命のかぎを拾った。夏休みに水泳練習と生物学研究のため、伊勢湾の鳥羽(とば)に1ヶ月の合宿を行った。ある日、海岸で何気なく拾ったあこや貝をあけてみたところ、立派な真珠のたまが出て来た。先生は文代が拾ったのだからとそのまま文代に与えた。文代は殻についたままの大きな真珠を弘前に持って来たが、母は文代に「あんたは一生運の良い、幸せな人になるよ。」といったが実際その通りになった。
 1923(大正12)年、奈良女高師を卒業した文代は母校の青森県立弘前高等女学校に教諭として赴任、数学、理科、それに心理学を担当した。弘高女には1925(大正14)年まで勤務したが、この間に自分の学力の足りなさを痛感し、東京帝大の女子聴講生になって勉強を深めたいと思うようになった。このことを奈良女高師の植物学の恩師に相談したところ、東京帝大では実験をともなう理学部では聴講生はとらないから、いっそ女子の入学を許可している東北帝大を受験したらよいといわれた。
 この頃、女性に対する学問の門戸は狭かった。この狭き門をくぐってすばらしい業績をあげた4人の弘高女卒業生が、母校の創立80周年の座談会で若き日の苦労をふりかえっている。小川の4年先輩で、医学博士となった吉沢ひでは、
 「東洋女子医専を出てから東大入沢いりさわ内科に入ったんですが、当時は女医など認められない時代で、低い地位でした。助手、副手の下の介補かいほというのを2年ぐらいやりました。戦後50を過ぎてから医学をやり直そうと思って、日本医大に入れてもらいました。二人の子供が大学を出て一人立ちしたところで、学位を取ろうと思い立ったわけです。午前中は医者をやり、午後からは学生、6年目でやっと博士号をとりました。
 日本医大で学ぶちょっと前の1948(昭和23)年までは、東洋女子医専の先生をざっと30年やりました。開業は戦後、全国の女性歯科医の半分以上は、私の教え子です。論文テーマはモニリア菌と大腸菌の関係を扱った『モニリア症について』でしたが、顕微鏡けんびきょうを用いての細かい検査で忙しく暮らし、危く右目をつぶすところでした。」

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