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この国随一のこけし作り 盛 秀太郎(もり ひでたろう)

 こけしの色つけは、日中は来客やら騒音で気が散るので、どうしても深夜に及ぶことが多かった。秀太郎にとって、体力の衰えた晩年のこけし作りはかなり体にこたえたと思われる。
 
 秀太郎こけしは、顔は魅惑的な表情をしているのに対し、胴部の達磨はすさまじい形相である。(本人の思いとは別に)その組み合わせが識者の話題になることがある。
 浪岡町本郷凧の影響であるという見方もある。しかし秀太郎の衣鉢(いはつ)をつぐと目されている奥瀬鉄則は、青少年期の家庭的な逆境を乗りきったこと、壮年期に8人の子供のうち、4人と死別したこと、長男の事故による片腕切断、末子の突然の失明など、相次ぐ過去の禍いを振りかえり、七転八起の体験を達磨の図柄に託していると信じている。
 頑健な体力を誇っていた秀太郎も90歳の坂を越えるとさすがに弱ってきた。床に臥す時が次第に多くなった。
 1986(昭和61)年7月27日、秀太郎は老衰により、身内の者や弟子鉄則たちの見守る中、92歳で一生を終えた。
 周囲の人が息を引きとったことに気がつかないほど、安らかな大往生であった。
 戒名は「木形院快翁寿慶居士」。木地挽きとして一生をまっとうした秀太郎にふさわしいおくり名であった。
 これまで盛家を守り、夫秀太郎を陰に陽に支えてきた妻スナは、夫と前後して病の床にあったが、夫の死後8日後の8月4日、夫秀太郎の後を追うようにこの世を去った。
 今、落合にある津軽こけし館は、全国からの見学者で賑わっている。こけしにちなんで始められた「こけしの里マラソン」も全国的に有名になった。こけし館には現在、秀太郎こけしを中心に全国各地のこけしが2700本あるが、ことの起りは山形地区の人々が東北各地のこけしを収集したことによる。収集が成功したのは、秀太郎の盛名を慕って寄贈した工人が全国にいたからであった。
 盛家では、今でも毎朝、秀太郎の遺影の前に、生前彼がこよなく愛煙したゴールデンバット1本を、欠かさず供えるのが習慣になっている。

 (執筆者 佐藤義弘)

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