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この国随一のこけし作り 盛 秀太郎(もり ひでたろう)

 その頃になるとこけしの引き合いが多く、秀太郎はこけし作りに専念していたが、時折、ろうそく台、ときには市内の宮大工から擬宝珠(ぎぼし)などが持ちこまれることもあり、鉄則も手伝わされることがあった。
 字を書くことの好きな秀太郎は、依然として劇場の看板書きは続けており、忙しくなると長男に書かせたり、仕事がつかえてくると、鉄則を動員することもあった。

 「良いズグリは良くまわる。」というのが鉄則に対する秀太郎の口癖であった。材料をケチらず、適当な肉厚のズグリは、まわしてもバランスがとれ、長い時間まわり続け、子ども達に喜ばれるというのが秀太郎の持論であった。
 ズグリには俗に、上縁部の肉の厚さが変わらない皿ズグリと、上縁部がまるく膨らみ部厚(ぶあつ)にできているカブズグリ(カブは蕪(かぶ)のことで形が似ているのでカブズグリと呼んだ)と二種類あり、秀太郎の皿ズグリは内部の描彩(びょうさい)が華麗で、よくまわるので子ども達の人気があった。温湯地方では、毛利という木地師のカブズグリと秀太郎の皿ズグリが最もよく売れていた。
 
 秀太郎は継承者である鉄則に、手をとり、足をとる教え方はしなかった。「芸は盗め」というかたくなな職人気質がそれを許さなかった。鉄則のこけし作りの技法がだんだん上達しても、決して口にだしてほめることはなかった。また、大声で叱(しか)ることもなかった。無口な名工と、その真髄(しんずい)をきわめようとする弟子とのたんたんとしたこけし作りは、およそ13年続いた。
 
 鉄則にとって、師秀太郎のことで特別に思い出深いことが二つある。
 こけし作りを始めて間もない頃、頼まれて「東京こけし友の会」に作品を送った。この作品は素人くさいが、初々しい感覚にとみ、好評を博した。そのことを師に話したら、無言で湯呑み茶碗を投げつけたという。しかも、弟子に絶対に当らない方角に向かって。未熟な腕で職人の面汚(つらよご)しだ――完全主義者らしい師の愛情の表現だったと鉄則は受けとめた。
 1986(昭和61)年5月、宮城県白石市で恒例(こうれい)の「全日本こけしコンクール」が開かれた。この席で鉄則の作品が、「内閣総理大臣賞」受賞の栄に浴した。こけし工人の最高の名誉であった。
 それより17年前、既に鉄則は黒石市柵ノ木に独立、こけし作りを始めていたが、この朗報を師秀太郎に知らせるため、盛家に足を運んだ。

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