ホーム文化財・遺跡>盛 秀太郎(3/6)


この国随一のこけし作り 盛 秀太郎(もり ひでたろう)

 1955(昭和30)年の4月、弘前の知人の家で、たまたま盛秀太郎のこけしを目にとめた板画家棟方志功は、その魅力に引かれるままに、秀太郎に一通の手紙を送った。文面の結びに「……現存の作品はこの国一番とわたくしが折紙をつける次第であります。」とあった。棟方志功らしい率直な感慨がのべられていた。
 地元の新聞は「この国随一のこけし作り」と報道した。
 翌年の夏、棟方志功は案内されて秀太郎の仕事場に立ち寄った。10数平方メートルのむさくるしい仕事場であった。
 志功は前年の6月、イタリアで行われたベネチア・ビエンナーレ版画展で、「柳緑花紅」(やなぎはみどりはなくれない)外10点が国際版画大賞を受け、その国際的名声はゆるぎないものになっていた。
 秀太郎は愛用のゴールデンバットを口にくわえ、1本は左の耳に挟んでの常に変わらないポーズであった。郷土出身で参議院議長をつとめた佐藤尚武が訪れたときでもそうだったが、どんな著名人が見えても一般の人が見えても、その接する態度は一貫していた。相手にあわせてよそゆきの服装をすることはなかった。
 か細い三日月型の眉、切れの長い瞳に被(かぶ)さるような八の字型の睫毛(まつげ)、小さな鼻に可憐な口もと。くびれた胴部の下には、素朴で愛らしい表情とは反対の、凄い形相の達磨の絵柄。これらのものが渾然(こんぜん)と調和した扇型のこけしは、秀太郎がこれまでに、地蔵型や棒型を作ったりして、苦心の結果、ようやく到達したものであった。
 棟方志功は強度の近視のため、舐めるように秀太郎の、大きめに作ったこけしを眺めていたが、「やはりこの国一番のこけしだ。」と賛嘆の声を惜しまなかった。帰りしなに無地のこけしを貰い、あとで絵柄を書いて送ることを約束し、秀太郎と別れた。
 当時、わが国は神武景気で輸出産業が大いにふるい、国民の生活も安定しつつあり、こけしブームも静かに起こっていた。
 国際的な名声を得た棟方志功の言葉が記事になるや、秀太郎へのこけし依頼がとみに増えはじめた。しかし、納得のいかないこけしは作らない一徹な性格と、年齢も60を超えていたため、相次ぐ注文にはとても応じきれない日々が続いた。
 このままでは名匠といわれる秀太郎の創造した温湯系のこけしが一代限りで消滅することを危ん(あやう)だ黒石市観光課の職員が、後継ぎの必要性を盛家に訴えた。秀太郎の長男は、少年時代の怪我(けが)で家業を継ぐことはできなかったし、孫たちはまだ幼かった。
 白羽の矢がたったのは奥瀬鉄則であった。長男真一の嫁の弟であり、奥瀬家の三男に生まれた鉄則は家事を手伝いながら、地元の定時制高校に通っていた。
 その年の8月末、鉄則少年は県立黒石高校山形分校1年に編入され、工人としての第一歩を踏んだ。当時はまだ盛家にりんご畑が残っていたので、畑作業をしたり、秀太郎のこけしの原形をかたどる、いわゆる木取りをし、夜間は定時制高校に通う毎日が3年以上続いた。

(3/6)
次のページへ

前ページへ戻る ホームページへ戻る