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この国随一のこけし作り 盛 秀太郎(もり ひでたろう)

 その頃は、第一次世界大戦などで、国内の政治、経済は混乱がひどく、主食の米の相場が高騰し、全国いたるところに米騒動が発生していた。
 津軽地方では、この年から数年間りんごの不作が続き、農村地帯はとくに不景気におそわれていた。
 農家で嫁をもらうことは労働力をふやすことを意味する。スナも嫁入り後すぐ、作業場でろくろをまわすことになった。なれないうちは指に血豆ができ辛かった。夫婦は木製品を作り、湯治客に売ったが、さばき切れず、生計を支えるためには、杓子、柄杓(ひしゃく)などを背負い、黒石町の雑貨商におろして歩いた。時には約20キロ離れた弘前の和徳町まで足をのばした。1時間で約4キロぐらい歩くので、弘前に着くのはいつも昼頃になった。

 背中の製品は夫婦の思う値段で売れることは少なかった。無理に頭を下げて売ろうとすると、足元をみすかされ、散々値切られることがくり返され、疲れた足どりで帰宅するのは夜になることが多かった。
手まわしのろくろから、今日のようなモーター式に改良されたのは昭和に入ってからである。近くの山谷という木地師はそれまで、水車を利用してろくろをまわしていた。
 ろくろが手動から電動にかわったものの、金属製の日用品が普及してきたので、木製品の売れ行きが鈍り、夫婦の生活は依然として苦しかった。
 秀太郎の字は独得の個性があり、幾ら書いても疲れない字体なので、近所の人々からよく頼まれて出向いた。祝儀の目録、葬儀の香典控え、商品の売り出しポスター、戦時下の兵士の入営の際の幟(のぼ)り、丑湯祭りに行われる薬師寺境内の素人相撲のにわか作りの桟敷席にはられる寄進者の名簿、あるいは役所や警察署等に提出する諸届出書、また、近くの劇場の看板は、ほとんど秀太郎の手になるものが多かった。旧山形地区では女子どもでも秀太郎の書いたものを見ると、「あっ、これは盛秀の字だ。」とわかるほどなじんだものだった。しかし、秀太郎は祝いごとや仏事に呼ばれ書き役を頼まれても、ただの一度も酒を飲んだことはなかった。生涯酒は口にしなかった。
 1945(昭和20)年4月、毛内地区(旧山形村)の松根搾油(しょうこんさくゆ)工場から出火し、折からの強風にあおられた火の粉が、対岸の下山形村に降りかかり、消防施設の貧弱なこともあり、またたく間に40数戸が類焼するという、まれな大火が発生した。この時、秀太郎は罹災者の窮状を思い、幾日も費やして、しゃもじ、杓子を作り、一軒毎にしゃもじ1枚、杓子3本・ひしゃく1本ずつ配って歩いた。平素、地域民にお世話になっているという職人気質(かたぎ)の秀太郎としては、当然のことをしたまでのことであり、人に語ることはしなかった。
 

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