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緑の革命の旗手 吉田 昌一(よしだ しょういち)

 当時、人事院では理科系の専門職と文科系の行政職の両方をこなすキャリア組(早く政府高官になる人たち)が手薄だった。そこで文系、理系ともに強い昌一に人事院から是非来てくれるようにと勧誘があった。また大蔵省の主税局からも声がかかったが、自分の専門分野を一番活(い)かせる農林省の研究機関に入った。 
 結局、東京都北区西ヶ原にある農林省農業技術研究所(現農林水産省農業総合研究所)に就職した。ここで専門の農芸化学の腕をみがいた。よし子夫人との出会いもここであった。そしてイネの生理、つまり光合成や根の生長、植物体の栄養バランスなどを追求し続けた。また、視野を広げるためアメリカ留学を希望し、夜はアテネ・フランセに通学して英語を学んだ。やがて1965(昭和40)年宿願のアメリカ留学を果たした。帰国後、日本を訪れる世界の農業研究者に対する通訳はもっぱら彼があたった。愛情をあたためあったよし子夫人とは帰国直後、挙式の運びとなった。
 1966(昭和41)年、石塚教授のすすめもあり、農林省からフィリピン・マニラにある国際稲研究所(International Rice Research Institute 略称IRRI(イリ))へ植物生理部長として赴任した。初めは2年くらいのつもりだったが18年の長期にわたった。二人の娘はマニラで育ち、英語が第一外国語、日本語が第二外国語となった。
 1960年代初期、爆発的に増加する人口に食糧生産が追いつかないという推測が支配的で、将来に対する見通しは暗かった。特に1965、66年と2年続いて発生したインドにおける干ばつは、1200万の餓死者を出し、アジアの開発途上国における食糧生産の問題の深刻さを、さらに浮きぼりにしたものであった。
 このインドの干ばつと同じ頃、小麦と稲の新しい高収量品種であるメキシコ小麦とIRRI(イリ)稲品種がインド、パキスタン、フィリピンを中心とした熱帯アジア諸国に導入された。これらの新品種は在来種にくらべて生産が2〜3倍に増加しうることを示し、将来に対する明るい見通しを与えた。このような希望的観測が「緑の革命」という華麗な用語をうみ出した。
 この「緑の革命」の中心となったIRRIは1960(昭和35)年4月、ロックフェラーおよびフォード財団の共同事業として発足、1962年2月に研究活動を開始し、4年後の1966(昭和41)年に“奇跡の米”と呼ばれるIR(アイアール)8を育成した。試験場では、反当収量は雨季600キログラム・乾季900キログラムで年間1,500キログラムだった。日本の反当収量が平均5〜600キログラムなのだからまさに“奇跡の米(ミラクル・ライス)”だった。このIRRIは現在、あらゆる穀物の中で単一品種として最大栽培面積を誇るIR36、といった高収量・短期栽培の品種を開発した。IRRIの開発したイネは今ではアジアの主要稲作国の40パーセントを占めるまでになり、かつての食糧難の国が「食糧優等生」といわれるまでになった。このIRRIの数々の業績の中で、理論研究の大役を果たしたのが吉田昌一だった。吉田は世界でも最高水準の日本の稲作を、もう一度生理学の目で見つめ直し、それを熱帯でも応用できるものとした。
 なお「緑の革命」の原動力となったのはメキシコ小麦の育成の成功であり、この功績によって育ての親ボーログ博士は1970年度のノーベル平和賞を受賞した。この小麦の栽培でメキシコの小麦の生産量は4倍になった。ところで、このメキシコ小麦誕生の発端が日本の小麦品種の農林10号などであることは案外知られていない。
 一方、吉田昌一らIRRIの研究者たちは現地在来種インディカの改良だけで日本のイネ(ジャポニカ)のような高収量をあげる品種の育成をめざして成功したのだった。吉田はこの頃、早生(わせ)種と中生(なかて)種を組みあわせて、1年に4回の稲作を行い、合計して1ヘクタール当り24,000キログラムの収量をあげた。日本の4倍であり、日本に次いで収量の高い韓国の5倍、当時のフィリピンの15倍だった。
 このようにして小麦と稲の高収量品種が急速に開発途上国に栽培され、1972〜73(昭和47〜48)年には全世界の小麦で18パーセント、米で5パーセントの増産をみた。その経済価値は10億ドルといわれ国際農業研究センターで小麦と米の研究に使われた金額の100倍だった。

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