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緑の革命の旗手 吉田 昌一(よしだ しょういち)

 吉田昌一は1930(昭和5)年8月25日、東京都中央区富沢町5の4に生まれた。父正、母香久かくの長男である。父は富山県高岡市の寺院出身で、長く、日本橋のメリヤス問屋の番頭をした。母は北海道小樽市出身、第八代青森県立農事試験場長で青森県稲作の基礎研究をまとめて東奥賞を受けた稲見五郎の姉である。昌一は3つ年上の姉のほかに妹、弟をもっている。
 父は大正末年に独立して店を構え、手広く商売を行ったが1927(昭和2)年の金融恐慌で倒産し、本所に小さく婦人子供服の縫製工場を経営した。しかし太平洋戦争が始まって工場は政府に徴用されてパラシュートづくりを行い、健康をそこねてしまった。昌一は1943(昭和18)年、本所区の中和尋常ちゅうわじんじょうく小学校を卒業して、府中市にある都立農学校に入学した。しかし、B29による空襲が激しくなった翌19年、叔父五郎が県農試木造分場長だったので西津軽郡木造町に疎開そかいくし、立五所川原農学校に転校した。間もなく一家が東京から疎開して来たが、父正はすでに体をこわしており、20年4月没した。1948(昭和23)年、五所川原農学校をトップの成績で卒業。叔父が場長となった黒石市にある青森県立農業試験場農芸化学科に勤務した。科長は後の弘大教授望月武雄である。こうして元町に住み、姉と二人働いて幼い妹や弟、それに病弱な母を看病し、家計をまかなった。しかし、母もこの年夫の後を追うように世を去った。多感な年頃に相次いで両親を失ったことはさすがにこたえた。これを見て、望月科長は昌一に北大進学をすすめた。叔父も姉も賛成した。しかし、そのためには新制高等学校卒業の資格が必要だった。ちょうど、黒石高等学校に新しく働きながら高等学校卒業の資格がとれる定時制課程が発足したので5月、向学心に燃える昌一は早速入学することにした。ここで幸せにも小田桐正三先生と出会った。一時、青森県教育長候補にもなった視野の広い先生は昌一の非凡さを認めた。当時の資料に「学究的な真摯しんしさあり」と書き残している。翌24年卒業したが、学校長賞、優等賞、実業教育振興会長賞などを独り占めしている。 
 
   勤務後、定時制で学び、帰宅してまず1時間復習し、その後、眠気をとりに夜の散歩をし、そして北大農学部をめざす受験勉強をした。北大では寮生活の中で土木作業などあらゆるアルバイトをした。専門コースでは石塚喜明いしづかよしあきく教授のもとで土壌学を学んだ。叔父と同じ分野だった。北大時代は経済的には苦しかったが若さゆえ希望に満ちたものだった。休暇に黒石へ帰って来た時には、姉や妹たちの前で寮歌を歌って聞かせた。“都ぞ弥生みやこぞやよい”が十八番だった。
 彼が専門課程に入った時、折よく黒石市の歯科医師波多野武治はたのたけじ氏が前途有為の青年のため、私財を基金として奨学金制度を創った。小田桐先生は早速、彼を推薦したので彼は波多野奨学会の第1号奨学生となった。両親を失って姉の収入だけで一家が支えられていたので北大の学費などは免除になっており、また日本育英会の奨学金も貸与されていたが、波多野奨学会に採用されたことは彼の人生を決定的に変えた。彼の没後、よし子夫人が「吉田昌一記念基金」の奨学制度を始めたのも奨学金制度に感謝する夫の遺志をかすためだった。
 アルバイトから解放されて勉強一筋の生活に戻った昌一はよく頑張った。その結果、1954(昭和29)年の国家公務員上級職の専門職では全国第二位で、さらに一般行政職でも各大学法学部出身者相手に善戦し、優秀な成績で合格した。

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