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郷土の人材育成に情熱をかたむけた 小田桐(おだぎり) きゑ

黒石高校から東京大学に入学した人に支給するというものである。
「息子に代わって、世の中に尽くす人を育てるのが、清に対する一番の供養だと思うのです。お手伝いさんを雇っても月に1万円かかる。自分の身の回りを自分でやれば、その分だけ浮くことになる。それを奨学金に使ってもらうことにしているのです。」
 この基金は、息子のために積み立てていた425万7千円をあて、その利息と自分の生活費の一部から1万円を支給するものであった。
 この奨学生の第1号となったのは、1962(昭和37)年、東京大学へ合格した小田桐洋一であった。ところが東京大学に合格する生徒が続かないため、国立大学生2人に対象を広げた。1967(昭和42)年、新潟大学へ入った高谷厚子は、月5千円の支給を受けた。部屋を借りる時、畳一丁が千円であり、牛乳1本が20円という当時の物価からみても、大学生活を支えた奨学金の大きな力が理解できる。黒石へ帰った時に挨拶に伺うが、もうこの頃の小田桐家は大戸おおどをおろしたままになっていた。くぐり戸を開けると、通り庭に、紺地に○二「丸に二つ引き」の小田桐家の家紋を白く染め抜いた大きなのれんが見えて、シーンと静まり返っている。若い人たちが訪問すると、戦死した息子のイメージと重なるのか、大変喜んだ。いつもバナナを小さく切った上から砂糖と牛乳をかけた果物で接待してくれた。これは、ひょっとすると息子の好きな食物であったのかもしれない。
1990(平成3)年までに、この奨学金の恩恵を受けた人が37名あり、基金も1000万円を超える額になった。奨学金は返還の義務もなく、大学を卒業した時に小田桐清の墓に報告すればよいものであった。
 奨学生は、清のニックネームから「丸太会」を結成し、毎年8月14日に墓参してその恩に報いている。
 小田桐きゑは、幼くして母に別れ、夫や幼な子に死別し、最愛の息子を戦争で失った。それは愛情をそそぐ相手を次々に失っていく悲しみの人生であった。しかし、それは親子という肉親の愛情から、郷土を担う若人を育てる社会愛へと転化させていった人生でもあった。
 晩年には、親戚から養子を得て後のことを託し、1974(昭和49)年9月13日、84歳で世を去った。
 その後、小田佐の家は整理されて今はない。しかし、茶室「明喜庵」と、今なお続いている「小田桐清奨学金」に、小田桐きゑの心が生きつづけている。

 (執筆者 篠村正雄)

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