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郷土の人材育成に情熱をかたむけた 小田桐(おだぎり) きゑ


 「今度はどこへ行くの。」
 「わからない。だけど母さん、この軍服を見てごらん。南方だよきっと。」

と交わした会話が、母と子の最後の別れになってしまった。
 戦争が終わって復員して帰ってくる人もいたが、1946(昭和21)年、「オダギリキヨシセンシ」の公報が町役場に入った。きゑは遺骨が入ったとされる白木しらきの箱を受け取り、仏壇の方へ向きを変えようとした時、箱のふたがはずれた。箱の中には息子清の名前と違った名前の小さな紙が入っていた。これがきゑにとっては救いとなり、
「清は絶対死んでいない。生きて必ず帰ってくる。」
という信念になった。息子の生きて帰る日を心の支えに家業をきりもりした。
 しかし、戦死の公報から17年が過ぎると、生きて帰ってくるという願いも薄らぎ、乙徳兵衛町の保福寺にある小田桐家の墓地に清の墓をたてた。1966(昭和41)年、76歳の時、清の戦死したフィリピン・ルソン島のバギオへ慰霊の旅へ出た。
幼い時に小田桐家で育った門脇長子(旧姓鈴木)が、『ミセス』<1967(昭和42)年5月号>にこの旅に付添った様子を紹介している。戦争などどこにもなかったような南国の青い海の見えるところに、持参した黒石米、井戸水を供えて祈った。
「清が海におちた夢をはっきり見たが、確か、この海のような気がする。」
と、波打ち際で涙ながらにくり返しくり返し息子の名前を呼んだ。この旅でようやく息子への気持ちが整理できたようである。それには20年という長い時間を必要とした。
 きゑは、鳴海病院(弘前市)院長で清の友人の父でもある鳴海康仲なるみやすなかに相談相手になってもらっていたが、鳴海が苦学生に奨学金を支給しているのを聞き、自分も育英事業を行うことを決心した。一人息子が大学での学問を途中でやめたという想いと、息子を東京大学へ入学させたかったという想いを重ねた。

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