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郷土の人材育成に情熱をかたむけた 小田桐(おだぎり) きゑ

茶室の名前は、表千家即中斎宗匠より「明喜庵」と名付けられ、その扁額へんがくは現在も茶室の妻にうちつけられてある。この名前は、明本校長の「明」と、きゑの茶名宗喜(そうき)の「喜」によったものである。建築費は100万円といわれた。当時は100平方メートル(約30坪)の家が50万円で建てられているので、その経費の大きさが分かると思う。現在、この茶室は、黒石高校(西ヶ丘)が新築するにあたり、校地内の植物園に移され、ひっそりと静まりかえっている。
 茶室の建築にみられるように、きゑは自分自身のために蓄財ちくざいを使うのでなく、他人のために使った。特に若い人たちを育成することに情熱をかたむけていった。

「小田桐清奨学金」をつくるまで
 小田桐きゑは、生まれた子供を次々と3人まで失なった。ようやく1923(大正12)年に生まれた三男清が育った。清は母の愛情を一身にうけてのびのびと成長した。弘前中学校(現在の弘前高等学校)に通学する頃には、いっしょに暮らしたことのある鈴木家の子供たちを集め、先生のあだ名の由来をおもしろおかしく教えたり、英語の発音を無理にいわせたりして遊んだ。その後の絵がうまく、友人のかばんのふたに漫画をよくかいてみせた。天真爛漫で物に動ぜず、中学校は5年で卒業するのに、7年かかっても悠々としていた。ニックネームは「丸太」であった。体格がよく、家業が製材所であったためにつけられたらしい。スキー部のキャプテンであった。
 母は清を医者にしたいと考えていた。東京大学へ入学するのが夢であった。この思いが後に奨学金の設立につながっていくことになる。
「母さん、勉強しろ、勉強しろといったって、できないものどうする。」
と、清は答えていた。母の願いのようにならなかったが、清は京都の同志社大学へ入った。清は、1944(昭和19)年、軍隊で書いた日記に次のように述べている。
「自分ハ将来中学ノ教師トナルヲ目的トシテタ。老イタル父母ノ下デ、田舎デ好キナ画ト小説デモ書イテ暮スコトヲ期シテ、同志社ノ英文科デ英語ヲ学ンダ。」
 しかし、歴史の大きな波は、この親子の幸せをもおし流していった。きゑは日曜日に面会するため、移動する軍隊を追って全国をまわった。なかなか手に入らなくなった砂糖を求め、息子の好きな「おはぎ」や「だんご」を作って会いに行った。軍隊からの手紙には、「私は何も寂しくない。私にはだれにもまさる母がいる。」と母への想いが書きつづってあった。また、この年の5月18日の日記には、
「本日、母面会ニ到ル。遠路青森ヨリ到ルヲ想バ、親ノ有難サニ涙コボルノミ。シバシ云フいうベキ言葉ナシ。地方ニ在リシ頃、何一ツ孝ト名付ク事ナク、不孝ノ連続ナリ。カカル不肖ノ子トいえども、常ニ心配シ下サル恩ニ何ヲモテむくエン……五十ノ坂ヲ越シタル母ニ今なお心配ヲカクル不甲斐ふがいナサ、今後、益々自己修養ニ努ムベシ。」
と記されてある。広島駅で列車が出る時に、

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