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郷土の人材育成に情熱をかたむけた 小田桐(おだぎり) きゑ

 ここには、小田桐家を中心にした考え方があり、その中で継母ときゑを軸にした愛と憎しみの生活が展開していったのである。

茶室「明喜庵めいきあん」をつくるまで
 小田桐きゑは、表千家の茶道を弘前市元寺町小路の傍島静そばじましずか、池ノ坊の生花を弘前市西茂森町の天津院てんしんいん住職桐原光三こうざんに習った。後に、茶道は表千家吉倉宗匠よしくらそうしょうについて習い、家元即中斎宗そくちゅうさい匠より「乱飾みだれかざり」の相伝そうでんをうけた。乱飾りは、地方で習う人にとっては家元より許される最高の許可証である。お茶とお花を町の人に表2階、後には店を改造した1階で教えた。吉倉宗匠は裏2階に4、5日滞在しながら、その門弟に教えた。娘時代は「小田佐のアネサ」、母となる頃からは「小田佐のかあさん」と呼ばれていたが、弟子からは「小田桐先生」といわれるようになった。現在、黒石で表千家のお茶と池ノ坊の花をたしなむ人の多くは、きゑに教えを受けた人たちである。
 黒石実科高等女学校へも、お茶とお花を教えに行っていた。高等女学校は、現在の市ノ町須藤善ガソリンスタンドのところにあり、1943(昭和18)年に黒石高等女学校と名前を変え、戦後県立となり、1948(昭和23)年、男女共学の黒石高等学校となった。
 当時はまだ学校で酒を飲むことが禁止されていなかったので、礼法室がしばしば会議の後の酒席に利用された。
お茶の稽古を始める時にまだ酒のにおいが残っているし、風炉ふろは火鉢がわりに使われ、タバコのすいがらがつき立てられている。「礼儀は文明の尺度です。生徒に礼儀作法を身につけさせるため、茶道を学ばせてほしい」と考えていたから、こんな酒とタバコのにおいのするところで稽古するのは、我慢できなかった。とうとうこの不満を校長明本常丸あけもとつねまるに訴えた。明本校長は、乙徳兵衛町の円覚寺住職で木造高校の校長であったのを、黒石の人たちが、新しい黒石高校をつくるために来てもらった人であった。校長のスケールの大きい話は、いつも聞く人をその魅力に引きずりこんでしまうものであった。きゑは、かねてから茶室を建てたいと思っていた。しかしわが家に茶室を建てても、自分と弟子くらいより利用しない。それよりも、新しい高校につくれば多くの人たちが利用できると考え、茶室を寄付することを申し出た。明本校長も、全国の高校で本格的な茶室をもっているところはないので、これができれば日本一の高校ができると喜んだ。
 早速、明本校長、きゑが境松の宮大工清藤竹次郎と共に、京都から北陸の茶室を訪ね歩いた。そして、金沢市(石川県)に住んでいた吉倉宗匠の教えもあり、雪国に合った茶室をつくることになった。清藤大工は茶室をたてるために茶を習い、1952(昭和27)年、小体育館に一度組立てて確かめた後、高校の中庭に26.46平方メートル(約8坪)の粋をこらした茶室を完成させた。

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