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郷土の人材育成に情熱をかたむけた 小田桐 きゑ

 三度目の母いそは、きゑが5歳の時に嫁いできた。この継母ままははは、しっかりしたきつい人であったというが、子供が生まれなかった。
 いそは、親戚から男の子(鈴木寅之助)をもらい、「チャコ(二男)」とよんで溺愛できあいした。継母への反抗からきゑは家出をするという行動にでたが、途中であった町の人から「小田桐の家をどうするつもりだ」と詰問きつもんされ、やむなく家へもどった。何よりも家が大事だという考えが、きゑの行動にブレーキをかけていった。それは、後に述べる婿養子を迎えることにもあらわれている。鈴木は、後に市ノ町に小間物屋(現在の高谷商店のところ)を開き、2階は卓球場として開放し、黒石を卓球王国にする一翼をになった。長男はじめは、慶応大学へ進み、全日本学生卓球選手権のシングルスとダブルスで優勝している。長女長子ちようこは、後にきゑがフィリピンへ息子の慰霊の旅にでる時同行するようになる。
 きゑは、1891(明治24)年3月24日生まれで、戸籍には父を才太郎、母を継母のいそで届出ている。きゑは、みの母に似て背が高く美人に成長した。このような金持ちの黒石美人を誰もがほっといておくわけがない。「小田佐のアネサ(娘)」の顔を見たさに店の前を行ったり来たりする若者たちや、結婚後でも人妻と知らずプロポーズにきた陸軍の若い少尉もいて、町の噂の種になった。
写真は、1935(昭和10)年頃、弘前市に滞在していた昭和天皇の弟秩父宮にお茶を差し上げた時のものであるが、その美しさが理解できると思う。

 17歳の時、継母の親戚で製材所の一番番頭であった成田耕造と結婚した。この人は商才にたけ、小田桐家の柱となったが、きゑとしては意にそわない結婚であった。二人の男の子が生まれたが、いずれも数ヵ月で死亡した。この夫が病死すると、二度目の婿養子に津軽藩家老の家柄である一戸功を迎えた。
体格がよく美男で教養もあり立派な男性であったので、きゑは夫婦らしい愛情と尊敬をもつようになった。
女の子が生まれたが、数ヵ月で死亡した。その後、夫が突然死亡するが、この時にきゑが妊娠していたので、親戚が生まれてくる子と家のためにと説得し、三度目の婿養子に功の実兄操を迎えた。こうして生まれてきたのが三男清で、二度目の婿養子にそっくりであったので、きゑは愛情のすべてをこの子にそそいでいった。

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