ホーム文化財・遺跡>小田桐 きゑ(1/6)


郷土の人材育成に情熱をかたむけた 小田桐(おだぎり) きゑ

母との別れ
  母と娘を乗せた人力車のかじ棒を、車夫が持ち上げてまさに走り出そうとした時、家から急いで出てきた老人が、小田桐家の一人娘は渡せないと、母の膝に抱かれていた娘を奪い取った。母は泣く泣く実家へ帰っていった。娘は3歳の小田桐きゑであり、老人は祖父、二代目才太郎であった。
 明治の民法では、家族を統率する戸主を定めてあり、家族は結婚についても、戸主の賛成がなければできなかった。遺産相続は、男子を女子よりも優先するようになっていた。女子の地位は低くおさえられ、妻は法律の上では無能力者とされてきた。男女平等がいわれるようになったのは、1945(昭和20)年、第二次世界大戦が終わった後につくられた新しい民法からである。
 きゑの母の頃には、個人よりも家を中心にする考えが強く、家風にあわないという理由や、「子なきは去る」といって家を継ぐ子供が生まれない時に、嫁ぎ先から実家へ帰される例が多かった。きゑの母さなは、高杉村(弘前市)八木橋家から1890(明治23)年に嫁いできて、1893(明治26)年に実家へ帰った。小姑にいびられたことによるという。
 この母との別れは、映画やテレビにも出てくるような劇的な場面であり、この後、二度と母子が会うことはなかった。物心のついた8歳の頃には、「母は自分を捨てて行った人」
と思うようになった。後に、この母が再婚し、子供ができてから、交際を望んだが、きゑは決して会おうとはしなかった。
 
小田桐家の人びと
 きゑの生家は、屋号を「小田佐(おださ)」という商家であった。もともと境松(黒石市)で農業を営んでおり、農閑期になると村々をまわって桶を直して歩く職人であった。父の由太郎は、後に襲名して三代目才太郎を名乗った。家業の農業、桶屋のほか、米の売買によって財を貯えると、上町角(現在の三上呉服店のところ)に移った。店に西日が当たっても変質しない品物で商売することを考え、大工道具などの金物を扱った。また、営林署から払い下げた材木を製材する仕事まで手を広げた。丸太を加工する木挽小屋(こびきごや)は家の筋向い(現在のモリトミビルのところ)にあったが、後に家の北側に移して「黒石製材所」とした。勤勉、篤実とくじつで、「小田佐のおじさ」と呼ばれ、一代で財を築いた商人であった。
 二度目の母きよは、北海道の小田桐家から1894(明治27)年に嫁いできて、翌年、実家へ帰った。

(1/6)
次のページへ

前ページへ戻る ホームページへ戻る