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大審院刑事部長となった 宇野 要三郎(うの ようざぶろう)

 ことに私がいっしょに住むようになった晩年は、弁護士の登録をして、少しばかりのお仕事をしていたこともありますが、生きがいを与えていたのは「弓」でした。弓道連盟の会長ということになり、十段という最高段位をいただきました。しかし、それはありがたいことではあったでしょうが、興味の中心ではなかったことが私達にはよくわかっていました。十段に推せんされた時にも、「おれが受けておかないと、後の人が困るだろうからなあ。」とつぶやいていました。
 戦前は、家の横に弓場を作るつもりで地所を残してありましたが、戦後それも手放さなければなりませんでしたから、庭前にまきわらを置いてそれで満足し、毎日午後電車に乗って、港区芝浜松町恩賜おんし公園の弓道場に通っていました。母が、「いっそのこと、お昼前からいらっしゃればいいのに。」と言うと、「お昼前は隠居(老人)ばかりだからつまらん。」と言ったので私達は、「隠居中の隠居のくせに。」と言って笑いました。父にとって「弓」は、老後のひまつぶしではなかったらしいのです。しばらくの間腕が痛んで弓がひけないことがありました。それでも毎日出かけるので、玄関に見送りながら母が、「ご自分でおひけにもならないくせに。」と言ったら、「他人の射るのを見て楽しめないようでは、ほんとうの弓ひきとは言えない。」と言って出て行きました。
「弓は当てるものではない。当たるものだ。当てようと思ったら品がなくなる。」とも言っていました。
 亡くなる年には、もう道場に行くことはできなくなっていましたけれど、その年の1月には庭のまきわらに向かっていたことがあったのは覚えています。まきわらの場合たしか二間足らずの距離から射るのですから、当たるも当たらぬもないわけなのですが、「あゝ、今日は実によいしゃができた。」
と言って晴ればれとして縁側に上がって来たのが印象的でした。たびたびひくことができなくなってからも、居間に作ったいろりのはたで、弓をけずったり、※ゆかげを直したり、つる音を聞いたりして楽しそうにしていました。
※ゆかげ→弓を射る時、指を痛めないようにつけるかわの手袋

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