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大審院刑事部長となった 宇野 要三郎(うの ようざぶろう)

 主人の勤めの都合で終戦後、滋賀県大津市に住んでいた時、三井寺の下の古い旅館の門口に、「正井観順師御巡錫じゅんしゃく跡」という碑が建っているのを見出し、なるほどと思ったものでした。
 父は、京都大学在学中、比叡山に観順師をお訪ねしお目にかかったそうです。それから大学を卒業し判事となって神戸地方裁判所に奉職ほうしょく。結婚して明治40年に私が生まれました。その私が小学校1年生に入った年、大津地方裁判所に転勤となり、一家はその地に移りました。ここに在住2年の間に、父は再び比叡山に観順師をお訪ねしたのだそうです。
 琵琶湖の西岸には、当時も石山から浜大津を経て比叡山麓の坂本まで電車が通っていました。師はお山の坂本に向いた方の側にあるあん(世間からのがれてくらしている人や風流人などの住むそまつな家)に住んでおられたそうですから、前回よりは楽に伺うことができたのでしょう。この思い出は、父にとっても大変なつかしいものであったらしく、いっしょに暮らすようになってから、二度ほど晩酌ばんしゃくを楽しみながらくわしく私に話してくれました。
 
 師は修行にやつれておられた前回とはちがい、円満なお顔で出家前後のことや、いろいろなことを話してくださったそうですが、やがて日暮れになると、「私は、これからおつとめをせねばならぬ。あなたは好きな時に帰ってくれ。」
とおっしゃって仏前にすわられたそうです。父は勿論もちろんすぐには帰らず、おつとめの様子を拝見していたのでしょう。
 「おれはそれを見て全く驚いてしまったのだよ。そこにはほんとうに仏様がいらっしゃると思わなければ、いや見えていなければこうは拝めないと思われるような真剣な拝み方なのだもの…….。」と感にたえたように話していました。

生きがいであった弓道
 必要な法律書以外に本を読んだことのない父が、神戸時代にある禅僧のお話を聞きに行ったこともあると母が話していました。職業柄若い時から、生き方の内なる指針を探し求めていたのかもしれません。結局それを「弓道」に見出しました。
 当時神戸に、旧高松藩の弓道師範岡内木おかうちぼくという先生が住んでおられました。仙台の二高の時からボートや乗馬に精を出していたという父は、私の生まれる前このお方の弟子となって以来、なくなるまでこの道に精進しょうじんを続けることとなりました。

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