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大審院刑事部長となった 宇野 要三郎(うの ようざぶろう)

郷里を忘れなかった父
 今でこそ多くの人々が県内外を問わずに、落ちついて様々のお仕事をしておられますが、明治の末ごろに六郷村上十川出身で、父のような経歴をふまれた人はほかにおられなかったのでしょう。希少価値というところでしょうか。
 それだけに父は、郷里を忘れることはできなかったようです。家には長女である私が、新聞など少し読めるようになるまで、郷里から東奥日報が来ていました。また親類の人々が訪ねて来られると、いつでもまず「米はどうだ?」と作柄をたずねていたことを思い出します。時節には実家からりんごの箱が来る、乾魚(鮭)が来る。伯母のところからは凍りもち(干しもち)が来るのですから、母親にならって子ども達が「おくに」と呼んでいた存在は、彼等にとっても大きなものでした。
 
たった一度のお説教
 父は、日常の生活様式には「おくに風」を強いるようなことはしませんでした。子ども達も父親とはいっしょに散歩したり、ひまな時には遊んでもらうだけでした。しつけは母親の仕事、しかるのも専ら母親の役目でした。その父親が、私の覚えている限りではたった一度お説教をしました。
 嫁に行く前のある日こう言ったのです。
 「お前もこれからは、世に出ていろいろな人に会うことだろう。人は誰でも長所と欠点の両方を持っている。相手の欠点ばかりを見ていたら人はおしまいだ。長所の方を見るようにしなさい。そうすれば幸せになるよ。」と。生まれてはじめて父親から受けたこのような教訓は、私に深い印象を与えました。
しかもその内容は、とかく自分の欠点は棚にあげて相手の短所を見たがる私にとって、実に適切な指示だったのです。黙って娘の性質を見ぬいていたのでしょう。

 相手の立場を考えた判決

 このような教えは、父自身の生活の指針であったのかもしれません。後にある弁護士さんが、
 「宇野さんは、判事として法の許す範囲内で相手の立場を考え、ゆるやかな判決を下す人でした。」
と言われるのを聞いたことがあります。親類のもめごとの仲裁をして、両方から感謝されていたこともありました。
 これは退官後のことですが、戦争中は、町内の隣組が地域活動の単位となり、地域内の隣組をまとめる町内会というものができました。父は、自分が属していた渋谷区神泉栄通しんせんさかえどおり町内会の会長にまつりあげられたのです。彼は実務をてきぱきと片づけることができるというタイプではありません。相当な方々が役員になっておいでで、役員の間に意見の対立もあるということでしたから、そんなことに巻き込まれないでもと、周囲の者は反対しました。しかし、会長になってみると、みなさまが父のもとにおいでになり、何と言うこともなしに事は運んで、まず無事に終戦近くに至りました。

正井観順との出会い
 明治30年代の初めのことでしたのでしょう。宇野家と縁つづきである正井家のご子息が、生まれつきご道心が深く、ついに出家して比叡山に上られ、千日の回峰行かいほうぎょうを終えて大勢の人々の尊崇そんすうを集められたということを、私は子どものころから聞かされていました。

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