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大審院刑事部長となった 宇野 要三郎(うの ようざぶろう)


 要三郎の生まれ育った家は、現在もそのまま上十川にあり、かやぶきの母屋や白塗りの土蔵が当時のまま残されている。弘前中学校を卒業するまでこの家にいて生活していたのであるが、このように一般の人々とは異なった生活環境にあったので、勉強することの好きな要三郎にとっては、とても恵まれていたと言えよう。
 二高に進んだ時から住みなれた家を出ることになった。京都帝国大学を卒業して裁判官の道を歩み、一人立ちできるようになったので、1906(明治39)年6月に東京都出身の植村ともゑと結婚。裁判官としての初任地神戸市に8年間在住後、大津市、浦和市を経て、1917(大正6)年東京都に移り渋谷区に落ちついた。そして長女ハル、長男俊朗としろうはじめ三男三女をもうけた。
 要三郎は、京都帝国大学独法科を1904(明治37)年に卒業してから、どのような道を歩んだのだろうか。
 大学を卒業した年に、すぐ神戸地方裁判所詰の司法官試補しほとなり、その後は神戸地方裁判所判事、大津地方裁判所部長、浦和地方裁判所部長、東京控訴院判事、東京地方裁判所部長を勤め、1923(大正12)年には、陪審裁判視察のため欧米各国へ出張した。
 1924(大正13)年には東京控訴院こうそいん部長となり、更に東京地方裁判所部長、大審院判事(高等官二等)、横浜地方裁判所長、東京地方裁判所長(高等官一等)を経て、1934(昭和9)年8月には大審院刑事部長に就任した。
 1941(昭和16)年9月に停年退職した後は、大日本武徳会理事長、副会長、渋谷区連合町会長、東京都連合防火協会常務理事となり、1947(昭和22)年7月には弁護士登録をして、東京第一弁護士会に所属した。1952(昭和27)年には国家公安審査委員会委員長となり、1956(昭和31)年同委員長を退職後、1960(昭和35)年には前に述べたように黒石市名誉市民に推戴された。
 1962(昭和37)年には全日本弓道連盟会長となり、1969(昭和44)年3月22日に91歳で他界された。
 長女中井ハルは、神奈川県逗子市に住んでいて、83歳の老齢ではあるが健在である。亡父要三郎を書き記した手記には、いろいろなエピソードが思い出として語られている。

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