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川柳王国青森の基礎を築いた 小林 不浪人(こばやし ふろうにん)


   いつか芽を吹き出すだろう巨木の根

 1945(昭和20)年7月、青森市は空襲を受け、一夜で焼け野原と化した。不浪人も家を焼かれ、黒石町の実家に帰る。
 同年8月、4年にわたる戦争は終わった。同年12月、不浪人は待ち構えていたように、新生「みちのく」を再刊した。その巻頭言かんとうげんで不浪人は次のように言う。
『戦争がおっぱじまって以来、大方の国民に「笑い」というものが忘れられてしまったのが争うべからざる事実である。新生「みちのく」は、その忘れられていた「笑い」を大方の国民に取戻すことを大きな使命の一つとしなければならない。しかもその「笑い」も、げたげた笑いではなく、また、くすぐりでもなく真実の笑いでなければならないのである。』
 再刊された「みちのく」から

 平和愛遠慮のいらぬ灯がきれい   よし丸

 戦争中は、敵の飛行機に見つけられるといけないので、電気の光を外に漏らすことが禁じられていた。人々は暗い夜を過ごさなければならなかったのである。

 もう朝だ夜明けだ縄が切れて春   蝶五郎

 「朝だ夜明けだ」は新しい時代の到来の喜びであり「縄」は戦争中の多くの束縛の意味である。


  戦災の痛手の事は口にせず     不浪人

  
 戦争で多くの人々が家を焼かれ、家族を失った。しかし、人々は悲惨な過去や貧しく苦しい現実よりも新しい出発、明るい未来に目を向けていた。
 復刊された「みちのく」は通算306号まで続く。
 1948(昭和23)年、県内各地の川柳吟社の代表者38人が集まり、全県をまとめた青森県川柳社を結成し、雑誌「ねぶた」(代表 後藤蝶五郎)が創刊された。と同時に「みちのく」はその長い歴史を閉じることになる。「ねぶた」は「みちのく」を継承しながらも、みんな自由平等の立場で民主的に青森県川柳を盛り上げていこうとしたのであった。創刊当時の同人は、かつて不浪人の下で共に川柳に打ち込んだ後藤蝶五郎、山田よし丸等であった。

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