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川柳王国青森の基礎を築いた 小林 不浪人(こばやし ふろうにん)


 ところが、以前に「みちのく」2月号の中に

    お定りの辻で飴屋の乱れ打ち

という句が掲載けいさいされているのだ。
『「四ツ辻………」の句は「お定まり………」の句の焼き直しではないか。作者も選者(剣花坊)も「みちのく」を読んでいるはずだ。「みちのく」のようなちっぽけな雑誌は只(ただ)で貰(もら)っているだけで一行も読んでいないというなら別である。読んでいるのなら、「四ツ辻……」は焼き直しだから抹消してしまえと怒鳴る権利はこっちにあるのだ。川上三太郎は「川柳家は作句と同時に他人の句をぜひ読みなさい。」と主張されているではないか。雑誌は大きいから良いというものではない。熱心さと真剣さによって評価されるものである。』
 西洋紙四つ折り8ページの「みちのく」で一流の川柳雑誌、しかも、川柳の第一人者である剣花坊に不浪人は警告を発しているのである。
 不浪人は他に厳しかったが、より以上に自分にも厳しかった。特に、同じような句や人まねの句を極力排除しようとした。「妥協だきょうは詩の上で何はともあれ避けねばならぬ。」だから彼は「みちのく」に出される同人の句を厳しくチェックし、もし以前に誰かが同じような句を作ってあればそれが偶然であろうが容赦ようしゃなく抹消まっしょうし、作句者に猛省もうせいをうながしている。
 川上三太郎は「不浪人は………どっちかと言えば無口でおとなしい方だが、書かせると、これで毒筆(どくひつ)(皮肉のきいた文章)だからね。」と不浪人の鋭さ、厳しさを認める。
 この誰にも妥協せず、内にも外にも厳しく川柳を追求していく精神が「みちのく」の伝統となった。そして、そのような研究心やチャレンジ精神が「みちのく」を支え、27年間も継続出版を可能にしたのである。また、その活力が「県下川柳大会」(昭和9年)や「海峡親善かいきょうしんぜん川柳大会」(昭和4年から青森、函館の両市で毎年交互に開催)の実施を成功させたのである。
 昭和19年といえば、日本は戦争の真最中、しかも敗色が見えてきたころである。産業も生活もすべて戦争に結びつけられ、国民は多くの犠牲を払った。「紙も戦力なり」と言われ、雑誌を発行するための紙の入手が困難になり、27年間続いた「みちのく」も、ついに288号で中断せざるをえなくなった。不浪人、「みちのく」との別れの一句。



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