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川柳王国青森の基礎を築いた 小林 不浪人(こばやし ふろうにん)

 当時の不浪人の写真が残っているが引き締まった体と、面長おもながで日に焼けた顔からは文学者というよりはスポーツマンの鋭い気性とたくましさが感じられる。
 不浪人は東奥日報の川柳欄への投句だけでなく、当時、日本の川柳界をリードしていた井上剣花坊(柳樽寺川柳会りゅうそんじせんりゅうかい)の「大正川柳」に積極的に投句し、その才能はいち早く認められ「東北に不浪人あり」と注目されるようになった。
 1918(大正7)年8月、「大正川柳」の主要メンバーである川上三太郎のすすめもあって野呂冬山(不浪人の実兄)、山田よし丸、佐々木若坊(わかぼう)らを誘って「川柳みちのく吟社」を結成し、ここに青森県初めての川柳誌「みちのく」が誕生したのである。
 青森県に最初の川柳の灯をともしたと言われる「みちのく」も最初は西洋紙四つ折りほどの大きさ(四六版)2ページ、謄写とうしゃ刷りのまずしいものであった。しかし、みちのく地方の川柳を開拓し、そしていつまでもそれをつちかっていこうという気概きがいに満ち満ちていた。
 1921(大正10)年、不浪人29歳、小学校教員を退職し、東奥日報社に入社する。青森市に移るとすぐに「みちのく吟社」の青森支部をつくる。また、東奥日報夕刊に「東奥川柳壇」を設け盛んに県下へ川柳の宣伝に努める。
 「みちのく」には同人の句が多く載せられているが、一般からも募集していて、県内はもちろん県外からも作品が寄せられている。また、川上三太郎をはじめ当代一流の川柳家を選者にして厳しい批評を受け自らを鍛え、また青森県の川柳の質を高めようとした。
 「みちのく」が小粒ながらからいところを見せ、全国の川柳家から注目されたのは第30号(大正10年新年号)のころからである。不浪人は「みちのく」に「ちびひつ」という欄をつくり、ここで川柳の在り方について自分の考えを主張した。そのとき、全国から寄せられる川柳家の句が槍玉やりだまにあげられ、厳しい批評の対象になった。後日、不浪人は「尽きせぬ思い出」の中で『ちび筆』について次のように書いている。「……私は柳界(川柳の世界)の誰かが言わなければならないことをズバリ言ったに過ぎなかったのである。しかるに相当誤解もされた。そして誰言うとなく『東北の荒夷あらえびす(荒々しい武士)』と言う異名いみょう(あだな)をつけられた。」
 「みちのく」36号(大正10年7月号)の「ちび筆」は、当時、天下一を誇る川柳誌「大正川柳」を槍玉にあげている。
 不浪人は「大正川柳」の中に

 四ツつじへ来ると飴屋あめやの乱れ打ち

という句をみつけた。当時は太鼓をたたいて飴屋が子ども相手の飴を売って歩いた。子どもは飴屋の太鼓の音を待っている。四ツ辻(十字路)だと四方に太鼓の音が鳴り渡るので飴屋にとってはかせぎ場所である。勢い太鼓を激しく打つ(乱れ打ち)ことになる。こんな世情せじょうんだ句である。

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