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川柳王国青森の基礎を築いた 小林 不浪人(こばやし ふろうにん)

 再び、川柳の文芸性を復興しようという動きが出てきたのは明治の後半になってからである。その先駆せんく(さきがけ)となった人は、阪井久良岐さかいくらきであり井上剣花坊いのうえけんかぼうである。
 久良岐は「五月ごい」、剣花坊は「川柳」という川柳雑誌を1905(明治38)年に出して新しい川柳の啓蒙けいもう(正しい知識を与えること)をはかった。それ以後、大正・昭和と川柳は一途いっとに隆盛へ向かうのである。
 小林不浪人は黒石にあって、文字遊びに化した川柳を復興しようとした東北の第一人者(他に肩を並べる人がいないほどの人)であった。
 黒石は昔から文芸の盛んな所である。青森県の川柳発祥はっしょうの地(初めておこった土地)と言われているが、その母胎ぼたいとなったのは1911(明治44)年、鹿の子かのこ雅号がごう来迎寺住職らいごうじじゅうしょくを中心にしてできた「浮雲会うきぐもかい」であった。浮雲会は、最初は都々逸どどいつ男女相愛だんじょそうあいじょうを七・七・七・五の四句を重ねて作る歌謡かよう)を主として作るグループであったが、後に川柳を主とするようになっていく。
 小林不浪人こばやしふろうにん(本名 野呂長三郎のろちょうざぶろうは、1892(明治25)年、黒石町甲徳兵衛町23番地に野呂米太郎の二男として生まれた。20歳の時に母の実家の養子となり、小林姓となる。
 不浪人が川柳を始めたのは1910(明治43)年18歳のころで最初は蝶三郎ちょうざぶろうと号していた。
 明治43年ごろといえば中央で阪井久良岐や井上剣花坊が川柳改革ののろしを上げて、5、6年よりもたたない、いわゆる川柳の黎明期れいめいき(夜明けの時期)である。当時は、各新聞がきそって川柳欄を設け投句をつのっていた(久良岐や剣花坊等がその選者になった)。そのせいもあって、地方にも新しい川柳の波が広がっていた。ちなみに、東奥日報が初めて「東奥柳壇とうおうりゅうだんという川柳欄を設け一般から川柳を募集したのは明治44年のことである。
 1913(大正2)年、不浪人は「浮雲会」に入る。
 1914(大正3)年、不浪人22歳、現在の黒石小学校の前身である黒石高等小学校(今の市民文化会館のあたりにあった)の教師となる。小林長三郎先生である。体は大きくスポーツマンであった。
 「大男の割に神経質しんけいしつ」と川上三太郎は彼を評しているが、神経質というよりは人間の心の繊細せんさいな動きを察知さっちできる鋭い感性の持ち主であると言った方が適切である。そのような感性によって人間社会の矛盾むじゅん(つじつまの合わないこと)や人間自体の矛盾性を日常生活の小さな出来事や行動から洞察どうさつ(見抜くこと)できたのである。
 不浪人は黒石小学校に7年間勤めたが、その間、同僚や子どもたちにも川柳を教えた。

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