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ランプの宿の歌人 丹羽 洋岳(にわ ようがく)

 書きおくれたが、青荷は温泉宿をめぐって櫛ヶ峰を源流とする美しく澄んだ川が流れている。洋岳の短歌朗詠の声と渓流の音と相まって人々はしばらく夢幻の心境となるのだった。
 1962(昭和37)年6月、黒森山浄仙寺の境内に洋岳2番目の歌碑が建った。

   山寺の庫裏くりの後のくり胡桃くるみ
     栗鼠りすにまかせて人影もなし


 と刻まれ、秋田雨雀、鳴海要吉の碑とともに雑木山の静寂に溶けこんでいる。
 この年また県褒賞を受賞した。また東京では5月12日秋田雨雀が帰らぬ人となった。

洋岳の作歌方法
 洋岳は歌心が湧くと、日めくり暦をはがして余白に書いたり、広告の裏などに走り書きしたので必ずしも作品保存は十分でなく、散逸した作品も少なくないようだ。青荷を訪ねる人に頼まれると、断われず書いて渡した色紙も数知れない。
 洋岳77歳の9月、津軽書房から「山霊」が出版された。歌集など死んだ後に出してもらえばいいと言う洋岳を、なだめ、やっと説得したのが詩人船水清と、日本画家中畑長四郎だった。「兄山上静観さんじょうせいかんと「氷紋ひょうもん」の2歌集からと、その後の作品を加えて867首を収めた。78歳には詩文集「峡谷断章きょうこくだんしょう」が刊行され随想を8篇、詩6篇を収めた。
 このようにして、洋岳の年齢を心配する友人、知人が洋岳のまわりにはたくさんあった。
 1969(昭和44)年、この年から老年の健康を守るため、冬期間は板留で越冬したが、青荷短歌会を結成、月例会を開いて後進を指導することも忘れなかった。
 この年の5月、世界の版画家としてその特異な画風をもつ棟方志功夫妻と弘前出身の下沢木鉢郎しもざわきはちろう画伯が青荷温泉を訪ねた。
 ここに棟方志功が遺歌集「青荷峡」に洋岳を讃えた小文を引用する。(原文のまま)

 あの暗いランプの下で、雪の穴のような部屋でよくもああした立派な生活と、歌が出来たものだと、感動ばかりです。
 三度行き、三度語りつづけましたし、喜び合ましたし、よい人々と連れ立って行き、宿った事も、どんなによかったか知れません。
 下沢・船水両氏の大きなつながりが、からんで、丹羽洋岳翁との連らなりはどこまでもどこまでも全くな世界まで、深無量自在じんむりょうじざい瑠璃光明るりこうみょうの不思議な世界のように光り漂っているようです。本当の事とモノはそんなものだと思います。丹羽洋岳翁もキットそういう眞中に歌詠している事でせうしょう

 永遠にも永劫えいごうにも歌詠かえいしていることでしょう。
                      1974.2.18


 1973(昭和48)年、どうしたわけか、この冬は青荷で越冬、2月急性肺炎にかかる。黒石市厚生病院に入院、家族の祈りも空しく、5月4日、帰らぬ人となった。84歳、最後の言葉は「さっぱどしたじゃ。」だった。
 1974(昭和49)年、船水清・中畑長四郎・後藤半四郎の手で遺歌集「青荷峡」が刊行された。

 (執筆者 山田義子)
 

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