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ランプの宿の歌人 丹羽 洋岳(にわ ようがく)

    春真昼火の用心の赤旗の
          黒石町にひるがえる見ゆ
    雪消水岸に溢れてすゑ霞む
         浅瀬石川の鱒とりの群


 牧水の目に写った大正初期の黒石の風物詩は歌集「朝の歌」の中に収められている。
 牧水はまた短歌朗詠にもすぐれていた。板留滞在中に指導を受けた洋岳は、後年牧水流直伝の朗詠を人に聞かせて楽しみの一つとした。若山牧水の来県は青森県の短歌界に大きな刺激となり、弾みを与えた。
 洋岳28歳のとき長男兵衛ひょうえが誕生。短歌創作の方もいよいよ脂の乗った時期だった。
 明治の末期に発行された短歌誌「東北」は「蘭菊会」その他が合併して、秋田や中央一流の詩歌人の原稿を招請し、地方誌として例のない盛んなものだった。洋岳はこの「東北」にも相当数の短歌を発表している。「東北」廃刊後、多くの短歌誌が生まれては消えていったが、その中で「はまなす」「黎明れいめい」と昭和まで続く歌誌が誕生、洋岳も意欲をもってこれらに短歌や小説を発表した。 
 大正12年には黎明叢書れいめいそうしょとして歌集「山上静観」を出した。巻末には自伝風の文章も入れた。この歌集刊行によって、洋岳は和田山蘭や加藤東籠についで青森県歌壇に確かな足跡を残すことになった。
 この頃、夏になると東京から秋田雨雀が来て板留の丹羽旅館に滞在した。黒石を中心に文芸講演会を開き、出身地黒石の人々の文化的啓蒙に力を貸したのである。洋岳もこの偉大な新劇作家と夏をともに送って多分に影響を受けた。
 洋岳31歳のとき二男収三が生まれたが、4歳になると浪岡町の福士家の養子とした。なお、収三の息子収蔵は現在、株式会社青荷温泉の総支配人として、祖父洋岳の意を守り、ランプの灯を絶やすことなく活躍している。

青荷の山住みを決意

 人生の一転機と言えば当るだろうか。かねて念願だった青荷温泉開発を決意、渓谷の湯の湧く場所に母屋を建て、妻子と移ったのは洋岳が42歳のときだった。
 青荷温泉は黒石駅から13.8キロ。途中一番高い峠に立つと、左手、山々の間に美しい櫛ヶ峰の姿がすっくと見える。そこから道は急な下りとなる。眼の下に雷山いかずちやまのなだらかな稜線を見ていると、どすんとすり鉢の底のようなところに落ちる。そこが青荷の温泉場なのだ。
    
    冬篭ふゆごもる山家の窓の氷紋ひょうもん
     ただにけわき世のものならず

 
 山住みは孤独に堪えることでもあった。殊に訪れる人もない積雪の中の暮しをうたったこの歌はよむ人の肺腑はいふをつく。

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