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ランプの宿の歌人 丹羽 洋岳(にわ ようがく)

 黒森学校の2年間、繁太郎は寂導の教えを受け、ついに自分の人生観をもつにいたった。それは何よりまず自分の病気を克服することであり、また短歌の道に自分の心を打ちこむことであった。
 当時、日本歌壇の第一人者与謝野鉄幹、晶子夫妻の主宰する新詩社は短歌添削会「金星会」をもっていた。当時この添削会を担当したのは石川啄木である。洋岳は石川啄木に数回作品を送って添削をしてもらった。添削というのはしかるべき人に作品を見せてなおしてもらうことである。1908(明治41)年6月17日の消印のある啄木からの手紙を、洋岳は大切にして保存している。短歌作品を添削した歌稿と、一生懸命にやるように励ました手紙は、貴重なものである。
 このほか佐佐木信綱ささきのぶつなの「心の花」を愛読、石川啄木のかかわっていた歌誌「スバル」にも作品を送るなど、短歌創作にみせた洋岳の意気ごみは目をみはるほどである。

りんご園での明け暮れ
 19歳から約3年間、洋岳は丹羽家所有の中野山のりんご園で過ごした。春から秋までを小屋に寝泊まりして、作業を手伝いながら短歌の勉強に読書に励んだ。
 そのころの事である。すでに歌友となっていた五所川原の和田山蘭わださんらんが洋岳を訪ねて板留にやって来た。しかし、田代駒一というペンネームでは探しあぐね、さんざんな目に会って洋岳にようやく会えたという。
 またこんな話も伝わっている。町から警官が来てそれとなく洋岳の様子を探るので不思議に思っていたが、その当時石川啄木は思想的注意人物としてマークされていたからだとわかった。
 洋岳は啄木から短歌の添削をしてもらうため数回文通しているだけなのだ。洋岳20歳、明治時代も末のことである。その後若山牧水に添削してもらうようになる。
 牧水は、これまでにない新鮮な言葉で、自分の心情を自然に託して歌った。有名な歌に   
   白鳥はかなしからずや空の青
     海の青にも染まずただよう
がある。
 牧水は、当時の短歌の世界に新風を吹き込んだ第一人者と言われていた。
 牧水らの新しい動きが地方にも及んだ。
 1909(明治42)年、五所川原に和田山蘭と加藤東籬かとうとうりが青森県の新派和歌の草分けといわれる「蘭菊会」を結成したが、洋岳はすすんでこれに参加し、「白日」という回覧誌第1号から短歌や小説を発表するようになった。
 22歳で南津軽郡田舎館村の成田いとと結婚し、翌年長女りつが誕生した。
  
     きさらぎの雲の夜明にしみじみと
          「我」思ふ時わが子生れぬ

 そのころ、洋岳は自分の生命と思う歌ができずスランプに陥っていた。雑誌に投稿もできず泣きたい思いの日々を送っていた。
 そのような時期に長女が誕生したのである。自分の存在、生き方を思い惑いながら厳寒の夜明けを迎え、そして、自分の分身である新しい生命を目の前にする。生きることの不安と新しい生命をいとおしく思う洋岳の複雑な心境が隠されているような歌である。
 東奥日報社は時代の流れにのり、初めて新派の短歌に注目し、紙上に掲載するようになった。和田山蘭が第1回の選者となった。これに力を得た洋岳は進んで作品を発表した。

若山牧水との出合い
 若山牧水が青森県入りしたのは1916(大正5)年の3月だった。十数人の歌友や弟子に歓迎され、青森市、五所川原市の短歌大会に出席、その後一人となった牧水は、板留の洋岳を訪ね、20日間滞在した。
 死ぬまで放浪を愛し、酒を愛した牧水は、漂泊の悲哀を格調高く歌ったが、その歌は今なお愛踊あいようする人が多い。
 かねて短歌作品の添削をしてもらっている洋岳は初対面とはいえ旧知のようなもの、31歳の牧水と27歳の洋岳、無償の短歌につながれた二人の青年歌人の胸に去来したものは何だったのか。思えば興味は尽きない。

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