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口語短歌の創始者 鳴海 要吉 (なるみ ようきち)

土にかへれ
 東京でも要吉の身辺に私服刑事の目は光っていたが、ローマ字が縁でローマ字社に勤めた。1925(大正14)年「土にかへれ」を漢字とかなまじりになおして出版、県内では反響をよんだが、中央歌壇をゆるがすまでにはならなかった。
 翌年、藤村と相談して「新緑」という総合文芸誌を出したが、一般受けしないので、口語歌誌にきりかえ本の名も2度改名した。どうにか細々続けた雑誌も戦争で紙不足にもあい、135号までで終刊。最終号はたった4ページという哀れさだった。
 雑誌廃刊後は童話を創作したが、その作品は秋田雨雀には及ばなかった。
 1945(昭和20)年には大空襲にあい弘前に疎開、2男竹春の戦地からの帰りを待ちわびるなど要吉も第2次大戦の戦禍を受けたのである。
 4年後、竹春の戦地帰還をまって弘前を引き上げ上京した。
 翌年11月、黒石から「土にかへれ」の改訂版が出版され、要吉は招かれてふるさとに数日を過ごしあたたかい友情にふれた。
 1955(昭和30)年、前から親交のあった棟方志功の庭に、要吉の歌碑が建った。
 その後要吉は、東京杉並の二軒長屋を自分から和日庵わびあんと名づけ、比較的平安にみえたが、1956(昭和31)年、高血圧で病人の身となった。口語歌もだんだん作らなくなった。
 和日庵での要吉を、右手を手袋でつつんで散歩する変わった老人として、人々は見ていた。町内には隣りに私小説作家上林暁かんばやしあかつきが住み、その他にも作家が住んでいたので、要吉はその人達の話題となったのである。先には藤村のそして花袋の後には今東光こんとうこうの小説や短編のモデルとなった。
 1957(昭和32)年黒石文学会は、御幸公園に歌碑を建て、前後して尻屋岬にも歌碑を建てたが、病床にある要吉は除幕式には出席できなかった。二つとも「諦めの……」の歌が刻まれた。
 黒石文学会はまた要吉をしのんで、黒石市来迎寺につぎの小さな歌碑を建てた。

   なに思ふ
     こどもも遊ぶあそべとて
   春のよい夜の
          橋もかわくに


と刻まれたが、その後1983(昭和58)年に黒石神明宮境内にも雨雀、要吉の生誕100年を記念して同様の歌碑が建てられた。
 鳴海要吉いまは口語歌人の第一人者と人々にたたえられ、その作品の深さを賞賛されているが、これらは要吉の魂から湧き出る叫びとも思えるのである。少年時代から薄幸にたえ、貧しさにしいたげられ、失恋の痛手を負いながら最後まで夢を追い続けたのである。
 1959(昭和34)年、要吉は77歳、静かに土にかえった。東京巣鴨駅近くの染井霊園に眠っている。

 (執筆者 山田義子)

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