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口語短歌の創始者 鳴海 要吉 (なるみ ようきち)

漂泊そして受難
 下北在住3年、黒石出身の口語歌人鳴海要吉の名がようやく村にも歌壇にも高まりつつあるとき、彼は飄然ひょうぜんと海を越えて北海道にわたった。1909(明治42)年、弘前市出身の校長に招かれて、天塩国増毛てしおのくにましけ尋常高等小学校に転勤したのである。ここで再びエスペラントを研究、ローマ字を生徒に教えたりした。1年ほどで古丹別こたんべつ尋常小学校に教員兼校長として転勤し、農漁村の子ども達を教えた。
 1911(明治44)年夏のこと、要吉は社会主義者ではないかと疑われ、刑事の家宅捜索を受けた。疑われた原因は、エスペラント語やローマ字の歌などを生徒に書かせたこと、島崎藤村をまねて、窓を緑色に塗りつぶしたことなどであった。当時はこの一風変わった詩人のすることが何もかも注目の的だった。そして何よりも、幼友達の秋田雨雀、青森県出身の反戦詩を書いた大塚甲山らとの文通の証拠である手紙が見つけられたことであった。警察の目はしつこくつきまとった。
 これに追いうちをかけるような事件がおきた。この年も終るころ、学校に奉安所ができ、天皇陛下のお写真が飾られることになった。
 校長の要吉が役場の係員と馬橇ばそりに乗って、写真を受け取りに行った帰り、取り扱い方が悪いと係員に難くせをつけられたのである。つまり馬橇のこと、動くはずみで目より高くささげていた写真の位置が下の方になったというのだ。
 言いわけも嘆願も聞き入れられず、不敬罪ふけいざいとして3ヶ月の休職を言い渡された。
 折あしく北海道では陸軍大演習があり、行動のあやしい者をさがし回っていた時だった。
 同情をした村人や青年達が材を持ち寄り、荒野に小屋を建ててくれ、人の好意で薬の行商などをしたが、行く先々に警察の見張りがいて、思うように売れなかった。
 7月30日、長女みどりが生まれ、一筋の明りが見えた要吉に1913(大正2)年3月にとうとう免職が言い渡され、北海道の荒野に職もなく放り出され、貧しさのどん底に落ちたのである。
 北海道増毛町史には要吉は理由のない不敬罪に問われたと書いてあるが、運命のいたずらだとしか要吉には思えなかったのではなかろうか。
 北海道生活5ヵ年、夜逃げするしか道はなく、妻と子を連れ、ふるさと黒石にも寄らず上京したのである。

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